違うこと、尊重すること

「むとうさんは、あまり今の事に関わる仕事はしないほうがいい。疲れてしまうだろうから」

取材でお目にかかったとあるお坊さまが、私を一目見るなり、そんなことを言われました。まだ何もお話していないというのに、なんとまあ、ど真ん中なアドバイスをくださったな、この方は本物だな…

なんて、畏れ多くも思ったのですが、実はこのことは、私が生きていく上で最も重要な「生き抜くためのカギ」なのです。

ひとことで言うと、子どもの頃の私は「変な子」でした(今もか)。
子どもながらにもそう自覚していて、生きるためには「普通のこと」から距離を置かないとだめだ、と感じていました。いろんな過酷な体験があったこともありますが、先天的にそう感じていたような気がします。

この「普通のこと」というのは、私が苦手だと感じることでした。
例えば、「感情を表現すること」や、「誰かを好きになったり嫌いになったりすること」あるいは「誰かと競争すること」です。
この「普通のこと」を自分がうまくできないと痛感し、「普通に見えるように」できる限りコントロールしてやり過ごしていたんです。

この時の自分を、「傷ついた子供がやむにやまれず」と言えば、何だかきれいな話になりますけど、そんなにきれいな思いから選んだ方法でもなかったんですよね。かなり冷静に、「この方法が一番ましだ」と思って選びました。純粋というには遠過ぎる考え方です。

とにかく、私が思いのまま振る舞うと、必ず誰かがそれを気にして、意地悪をしたり、否定してきたりするので、めんどくさかったのです。それを回避しないと、私自身のパワーを維持できない、そう考えたのかなと思います。

そして私は、ある程度無難に生き抜くために、「擬態する」「気配を消す」「同調する」という技を手に入れました。

これって、つまり生き物の「生存戦略」ってやつですよね。

その後、そこそこうまく生き抜くことができ、まだ生きているので、その生存戦略は、まあまあ成功だったと思います。

そんな昔のことを思い出したのは、今話題の『新潮45』休刊に至る、諸々の動きに触発されたからです。

LGBTにまつわる様々なことに、私は何かを言えるような、そんな権利も準備もありません。冒頭のお坊さまのアドバイスを思えば、そして私の生存戦略を思えば、ここで何かを言うことは、あまり良くないことかもしれません。でも、ある意味禁を犯しても、やっぱり今回はひとこと言いたくなりました。

私も存在として、マイノリティであると思いながら生きてきたので、LGBTの皆さんはもちろん、私のようなものも、少しでも生きやすい世界になるといいのにな、と強く思っています。

ひとは、みんな違う。
一生懸命、それぞれが生きている。

そのことをもって、他の人の生も、自分の生も、同じように尊重すればいい。
そんなシンプルなことなのに、なぜ、否定するんだろう。
そして、なぜ否定されなくてはいけないのか。……そう思います。

そして、編集者、ライターのはしくれという立場からも、少しだけ。

「言論の自由は保障されるべきだ」という言説の是非は、正直言ってよくわかりません。だからと言ってすべてが是となるのは、私は到底「是」とは思えない。

少なくとも、私は、誰かが不幸せになる本は、つくりたくありません。

「この本と出会った人が、最後にちょっとだけ幸せになってくれますように」

そう願いながら、本をつくってきました。
拙いですから、うまくできたかどうか、それはわかりません。
でも、本を書いてくれた人も、取材させてくれた人も、読んでくれた人も。そして、デザインをしてくれた人、イラスト書いてくれた人、写真を撮ってくれた人、そして私自身も、幸せであるように。
そんな願いを込めて、本をつくっています。

しかし、もちろん自分が至らないところ、あるいは意図しないところで誰かを傷つけてしまうこともあるだろうと思います。そのことを思いながら、いつも不安に駆られます。
先日、私が自分のライティングにつまずいて弱音を吐いた時に、ある人がこういいました。

「確かにお前の文章は、みんなが喜ぶものじゃない。でも、学校でいったら、学年に一人か二人はかならずおるやろ。少ないかも知れへんけど、お前の言ってることをきいて救われたり、歓ぶやつは絶対おる。その人たちのために書けばいいやんか」

そうだった!

私個人ができることは、とても小さなこと。
世の中で見たらマイノリティ、少数派だろうけども、それでもどこかにいるそんな人たちのためにも、つまりそれは自分自身のためにも、全力で真心を込めること。

まず、このことが一番大切なんだと、改めて思いました。

もちろん、商業出版に携わる以上、ちゃんとした売り上げになるように全力を尽くすことも、重要な仕事です。しかしそれは、あくまでもその次に来ること。
このことを、もう一度、心に刻み、確認しました。

結局、私たちにとって大切なのは、「心」なのではないかと思います。
そして、自分に心があるように、相手や見えないどこかにいる誰かの「心」を想像すること。
そこにもう一度、立ちかえりたいと思います。

私の場合、そこを考え過ぎると、今度は動けなくなってしまうかもしれないので、ほどほどが大切。そこはこれまで培ってきた方法で、どうにかコントロールする必要はありますが……。

さて。

そんなわけで、今はこの目の前の仕事を、心を込めて精いっぱい頑張ります。

長々と、とりとめのない文章を読んでくださってありがとうございました。

(むとう)

即身仏という、究極の祈りの姿を巡る旅!!『新編 日本のミイラ仏をたずねて』/土方正志著(天夢人発行、山と溪谷社発売)

今年に入ってから、ワクワクしながら密教の本をつくっています。

大兄と慕う大先輩Hさんの深い懐をお借りする形で、今回は主に書き手として参画させていただいてます。まだはっきりとしたことはご報告できませんが、10月半ば発売になりそうです。

実はこの密教の本は、シリーズ企画の第一巻になります。

「日本の叡智を、もう一度知ろう」

そんな思いを込めたシリーズなんですが、企画者のKさんは、古巣ヤマケイの大先輩。
『山と溪谷』本誌の元編集長なので、山岳のことはもちろんめっちゃ詳しくてすごいお方なんですが、民俗学的アプローチでもって、Kさんでないとできない世界をずっと表現されてきた方です。

例えば、ヤマケイの近年のベストセラー『山怪』シリーズは、まさにKさんワールド。
これぞKさんの真骨頂。現在、二巻まで出てますが、来月頭に三巻も発売されるそうです!今からめっちゃ楽しみ。

そんなKさんが、「天夢人(テムジン)」の社長に就任されて、以来、まさにKさん節全開の企画をバシバシと刊行されてるんですが、私が参画させていただくシリーズも、まさにそんな企画の一つなんですね。

そのシリーズを担当してくださっている編集者Tさんが編集された『新編 日本のミイラ仏を訪ねて』を頂戴しました。

やった~!!
Kさん、Tさん、ありがとうございます!!

1996年に発売されていた『日本のミイラ仏を訪ねて』の新編です!
22年前の単行本に、加筆修正し、再編集した形での、再発売。

実は私、高校時代の友人はよく覚えていると思うのですが、ミイラにはちょっと詳しい女子高生でした。
エジプト考古学を中心に、神話学にはまっていた小学生のころから、世界のミイラについては、かなり本を読んで勉強してましたので、どこにはどんな形でのミイラがあるか、その葬送方法(ミイラの造り方含め)というのは一通り摑んでおりました。
そのなかで、もちろん日本のミイラである「即身仏」にも、強い関心を寄せていたのです。さらにいうと、実家(埼玉)の近くの寺院でも、明治期に即身仏になろうとした方がいたという話を母から聞いたりしていたことも、大きかったかもしれません。

そういう見方をしていくと、じつは、高僧の遺体が祀られている例というのは、それほど特異なことではありません。
中国唐代には、「肉身像」つまりミイラ、そして遺体に麻布をまき、乾漆の胎(たい、芯のこと)にする「加漆肉身像」(『奈良美術の系譜』小杉一雄)、遺灰を漆の中に混ぜるという手法「遺灰(ゆいかい)像」がよく行われていましたし、
これは、「高僧は自ずとミイラになる」という思想が元(中国の屍解仙ベース?)になっているそうなのですが、日本も例外ではなかったということではないか、と個人的には思っています。
##生き人形のような形で高僧を保存し、礼拝するというのも、上座部仏教国であるタイでは、今でもよく見かけますね。これは中国ベースの発想じゃなさそうですけども

そうそう。そういえば。
以前、仏教美術写真の大家・O先生の担当をさせていただいているときに、仏教美術の研究者であるS先生と雑談をしていて、S先生がふと、

「鑑真和上像、あれは遺灰像ではないかと思うのですが、O先生、いかが思われますか」とおっしゃいました。

ちょっと記憶があいまいなのですが、確か、和上像修復の記録写真を、O先生のお父様が撮影していたというお話から、断面をご覧になってるんじゃないかと、S先生が想像されての発言だったように思うんですが…

「ええ、さように思います。少し遺灰らしきものが混ざっていたように見えたようです」

と、さらっと応えておられて、私は一人、「おおおおおお!!??」と叫び声をあげました。

やっぱ遺灰像なんだ~~!!?

私だけ、やたらと興奮しているのを見て、先生方は優しく微笑んでおられたことを思い出します。

……と、ちょっと話がずれてしまいましたが、

そんな私にとって、この本は、まさにど真ん中、大好物なテーマなのです。

実はまだ、まえがきしか読んでません。
これから、楽しみに、じっくり拝読しようと思います。わくわく。

(むとう)

「野村萬斎さん、オリンピック開閉会式統括責任者に」というニュースを見て、がぜん盛り上がる期待


(上の写真は、日刊スポーツさんのニュース記事です)

野村萬斎さんがオリンピックの演出統括??と聞いて、
え~、萬斎さん、なんでまたそんな畑違いのめんどくさそうなことを…と、正直思ってました。
でも、今朝、たまたま記者会見を見て、おおおお!そうか!と、納得して、何だかワクワクしてきちゃいました。
 
「能・狂言師である自分からすると、そもそも「鎮魂再生」こそ芸能の主題である。今度のオリンピックでは、その日本の芸能の根源を、土台にしてあくまでも本質的に表現したい。見てすぐわかる和ではなく、おおもとの精神に、「和」を持って挑みたい」

要約すると、そんな意味のことをおっしゃってたんですが、
なんで野村萬斎さんほどの本筋の芸能の人が、なぜこの仕事を受けたのかわかった気がしました。

そうか、今度のオリンピックは、規模が大きいけど、「鎮魂祭」なんだ。

だからこそ取って付けたような「和テイスト」ではなく、本質的に正しいことをやらなくてはいけない、と。

萬斎さんはそれをやるには、いろんな作法や手法を知っている自分がやらなくてはと思われたんじゃないか。
 
確かに日本の芸能の根幹とは、「鎮魂」なのです。
神や怨霊を鎮める。神仏に感謝をささげる。凶事を祓い、喜事を招来する。
室町時代に誕生したお能や狂言は、それ以前の時代の芸能のエッセンスを集大成したものですから、テーマのほとんどが鎮魂です。萬斎さんは、そんな伝統のど真ん中に入る人です。
これ以上ないってくらい、本筋のことをよくご存じでしょう。
 
他のメンバーも、今を時めく才能あふれる方ばかりですが、その核になる「魂」を呼ぶ人が必要だった。
それを萬斎さんがやってくれるということなのでは!?
 
いやもう、これは、俄然楽しみになってきました!!