葛城修験の二十八宿修行に一部参加させていただきました!

(第一経塚・序品窟がある虎島と友ヶ島)

昨年の9月、YAMAPさんのお仕事で、「葛城修験」を取材させていただきました。その際に、葛城修験二十八宿修行のスタート地点がある友ヶ島にも上陸したのですが、「第一経塚・序品窟」がある「虎島」周辺は、残念ながら、立ち入り禁止で入れなかったのです。 それは本当に残念で、最後に金剛山山頂の転法輪寺に伺い、その無念さをご住職・葛城光龍師にきいていただいたところ、「来年、一緒に行きますか?」とお声掛けてくださったのです。私は身を乗り出して「はい!行きたいです!」とご住職のお優しさにすかさず便乗。そして本当に、ご住職のご指導のもと、葛城修験二十八宿の修行をされておられる「司講」の末席に加えていただきました。

今回の体験は、実に特別な体験でした。 なんと言いましょうか、やはり行者さんの列に加えていただいたことにより、明らかにいつもの体力+αという感じで、我ながら力強い体の動き…。単なるトレッキングでは、もっと疲れていたのではないかと思います。同行してくださった編集Kさんも、同じように言っておられたので、気のせいではないでしょう。ちょっと疲れたな、と思っても、ほら貝の音や葛城師の声が、震い立たせてくださいます。

(写真の尖った部分の手前に序品窟がある)

序品窟は、ゴツゴツの岩が並ぶ海岸を進んでいった先の洞窟にあります。友ヶ島と虎島は、普段は別の島なのですが、大潮の時などは、水が引いて歩いて渡れるんです。 ただ、この岩場は本格的に危ないので、写真撮るのは控えました。そして何より「行」なので、私自身ニワカながらも、「行」に集中したいということもあり、その思いを優先したということもあります。

(右が友ヶ島で、左の小島が虎島。潮が引くと歩いて渡れる道があらわれる)

序品窟まで歩いて行って、行を行います。そして再び友ヶ島と虎島の通路地点まで戻り、別のルートから、観念窟を目指します。

観念窟に至るには岩壁を降りる必要があります。この岩壁がすごい!!命綱を結んでいただいて降りましたが、高所恐怖症の方はちょっと無理かも。実は私、こういうのは大丈夫というかかなり好きなんです(高所好き)。不謹慎かもしれませんが、かなり楽しかったです。

するすると降りると、その下の方に海食洞窟があり、そこに「観念窟」という行場があります。洞窟には、江戸時代に作られたという石碑があり、オレンジ系の石質は、付近の岩ではなく遠方のものと思われます。わざわざここまで運んだんですね。すごいなあ。 観念窟の中でちょっと休みました。すばらしい光景が目の前に広がり、何とも言えずいい心地です。向かいの大きな岩に、若いトビが止まっていて、ずっと鳴いていました。

(修験道の祖・役小角さん。ありがたいです…)

もう一度岩壁を上り、最後に役小角さんのお像の前でご挨拶します。行者さんが吹き鳴らすほら貝の音が、青空の中、どこまでも伸びていくよう…。最高の時間を過ごさせていただきました。

帰りの船から、先ほど上り下りした岩壁を遠望してみました。

(虎島の行場)

「あんなすごいところにいたんですね」

思わず独り言。客観的に見て、すごすぎませんか。あんな特別な場所に、葛城師のお導きで立っていたのかと思うと、改めてありがたい気持ちでいっぱいになりました。

帰りの船でも、再び行者さんがほら貝を吹いてくださいます。その心地よいこと。このほら貝は、先ぶれであり、神仏への奉納であり、時に境界を示しているのかな?と感じました。

本格的な修験道の行に参加させていただいたのは初めてでしたが、トレッキングで歩くのとは全然違いました。冒頭にも書いたように、いつもの自分以上の力が出ている気がするのです。本当に不思議ですが、それはきっと葛城師はじめ行者の皆様のお導きによるものでしょう。また講の皆さんがとても親切で、皆さんの優しさが創り出す雰囲気の良さもまた、いつもにまして力を発揮できる大きな要素であると感じました。

ぜひ皆さんも、機会があったら、行者さんのご指導で歩いてみてください。何かが決定的に、圧倒的に違います。それは間違いなく実感できると思います。

最後になりますが、今回同行をご許可いただきました葛城光龍師、司講の皆様に、改めて御礼申し上げます。すばらしい体験をありがとうございました。ぜひ今後もご指導のほど、お願い申し上げます!

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?★追記。つまり阿育王信仰…

前回、「銭弘俶塔なのに、銘が905年!?ってどういうこと?」というレポートを書きました。

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?

その後、2004年トーハクさんで開催された『中国国宝展』の図録を読み返してましたら、まさにそのアンサーとなる文章が掲載されていつことに気が付きました!(『中国仏教美術史にみる阿育王信仰』小泉惠英氏執筆)

結論から言うと、私の理解不足でしたが、「阿育王塔」とは、中国で4世紀ぐらいから盛んになった「阿育王信仰」、つまり、仏舎利に関わる信仰の象徴として連綿と中国で作られており、ひとつの様式を伴った塔だったようです。

つまり、「銭弘俶は、阿育王の故事に倣って、阿育王塔の小塔を、阿育王が作ったと伝わる数でもって造塔した」と言ったほうがよかったみたいなのですね。

(ほかの資料によると、いわゆる「阿育王塔」は三層構造だったということなので、日本では、滋賀県にある石塔寺の三重塔が近いんじゃないかと、勝手に連想してみたり。そういや、阿育王塔ってあれそうだよな、と今更気づくニワトリ頭な私。日本にもバッチリ阿育王信仰は伝来しておりましたのですよ。石塔寺については以前、イシブでご紹介したことがあります↓ )

file.4 石塔寺三重塔(滋賀県)

ですので、この故宮博物院の「金塗塔」が、銭弘俶よりも先行していても、まったくおかしくない、ということになります。

なるほどなあ。

自己完結ではありますが、勉強になりました!

(むとう)

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?

突然ですが、台湾に行ってきました!
なんと、我ながら意外なことに初めての台湾!

楽しかったです~~。(余韻)

台湾についてのレポートは、いろんな方向から書いてみたいと思いますが、忘れぬうちに、まずは「故宮博物院」から。

一度は見てみたい、というか見ないといけない故宮博物院。清朝皇室のコレクションの大切なところを、中華民国が持ってきてしまって作った博物館ですから、伝世品のこれはというものは、北京よりもこちらにあるんではないか、という、それはそれでかなり複雑な背景がある場所なわけですが…。

(あいにくの雨でしたが、それはそれで雰囲気ステキでした。)

その複雑さについては、ちょっと今は置いておきまして、忘れないうちにいくつか「おおおお!?」と思ったものについてレポートしておきたいと思います。

前置きはともかく、まずはこちらをご覧ください。


誰がどう見ても有名な「銭弘俶塔(せんこうしゅくとう)」ですね。中国では「金塗塔」「銅阿育王塔」とも呼ばれます。

「銭弘俶塔」というのは、紀元前3世紀ごろ、インドのアショーカ(阿育)王が、八万四千もの塔を造塔したという故事にならって、呉越国王・銭弘俶が、八万四千の塔を作らせたと伝わるもの。銅製、銀製、鉄製のものがあります。日本にも伝来していて、完品としては奈良博さん所蔵の「銭弘俶八万四千塔」があり、ほかに永青文庫所蔵のものも有名ですね。

銭弘俶は熱心な仏教徒で、「散逸してしまった経典を譲ってほしい」なんてお願いを、日本や高麗に使者を出しているほど。また、記録によれば、造塔した塔のうち500を日本に送ったとも言います。

そんなわけで、この形の塔は、一つの塔のスタイル(様式・デザイン)として、とても有名なんです。

……ところがですよ。

んんん??
天佑二年(905)年とありますよ??! あれれ??

ちなみに唐が滅んだのは、その二年後の907年で、呉越国が成立したのは、その後のことです。銭弘俶はその呉越国の五代目(929年生まれ、在位948―978)ですから、905年では影も形もありません。

すると、銭弘俶が作ったとされるこの塔のデザインは、唐末にはすでに存在していた、ということになります。

え~~!?

細かいことは省きますが、デザインとしてはほぼ同じです。あえて言うなら、基壇の下の部分に反花(かえりばな)がないことくらいでしょうか。

すると、インドの阿育王の造塔した塔と、銭弘俶の塔との中間に位置する「阿育王塔」と言えるのかもしれません。しかし、阿育王が作った塔は、どうも石柱っぽいので、こういうかたちではなかったのではないかと思いますけども……。

単に勉強不足で知らなかっただけかもしれませんが、日本で銭弘俶塔について語られている資料では、銭弘俶以前にも同じような塔があった、ということは書いてありません。もっと詳しい資料があったら、どなたか教えてください!

いやあ、ほんと。びっくりしました。

しかし、この塔があるのは、一番最初にみた部屋です。
この塔一つに、これだけかぶりついてしまっている私。明らかにペース配分がおかしいことは、お分かりいただけると思います。

そんなわけで、しばらくは気になった名品の数々を、こつこつとご紹介していくこととにしようと思います。

(つづく)