【関西旅】④弘法大師空海さんと山の神さまたち/『山の神仏』展@大阪市立美術館

高野山は、仏教界の巨人・空海さんが開いたお山
さて第三部は「高野山」です。大きな声では言えませんが、私、一度もこちらに足を踏み入れたことがありません。

本当に大きな声では言えませんけども…

さて、そんなことで未踏の地ですので、「肌で感じる、勘」めいたものを頼りに動いている不確かな人間としましては、ついつい語調も弱まります。

とはいえ、高野山と言えば空海さんこと弘法大師さんです。弘法大師さんは平安時代の人ですが、真言宗という密教の流れを日本に開いた人です。今回の旅では、京都智積院の宿坊に泊まりましたが、こちらも真言宗〔智山派〕。いつも京都にいったら必ず立ち寄る東寺も真言宗です。(下の写真は東寺境内のようす)
20140527-11「密教」というのは、仏像や法具など、とても多様でたくさんあります。なので、仏像が好きですと、密教のお寺に行く機会はすごく多いんじゃないかと思います。かくいう私も、すごくお世話になっていると思います。

そんな自分だのに、高野山に行ったことがないだなんて、本当にお恥ずかしい話なのですが、今回こちらの展示を見て、改めて実際に訪れ、肌で触れないといけないなあと痛感しました。

空海さんを導いた土地の神・狩場(かりば)明神と、土地を与えた丹生(にう)明神
さて、空海さんがお寺を建てるための場所を求めて山地へ入ったところ、二匹の犬を連れた身の丈八尺(180センチ)を超える日に焼けた狩人に行き会い、その狩人に導かれて、丹生明神に会うことができ、そしてお寺を建てるに適した場所を教えてもらった、という伝説があります。

この狩人は実は神さまで、丹生明神はそのお母さん。この母子神の助けを得て、空海さんは高野山の土地を発見、金剛峰寺という立派なお寺を開山することができました。

空海さんはそのことを大切にし、以来ずっと高野山の大切な神様として、仏さんと一緒にまつられている、というわけなんですが…。

この狩場明神、つまり狩人というのは山で猟などして暮らす民の姿であり、また「丹生明神」の「丹生」は水銀のことですので、水銀鉱脈の発掘や当時貴重だった丹朱の製造に携わっていた一族のことを表わしています。

つまり、空海さんが高野山を開山できたのも、こういった人々の助けでもって成し遂げられたんだ、という事実を語る説話だ、と考えられています。

このお話はとても有名なお話ですが、解説のテープで山折先生が「狩場明神と丹生明神が、母子であるということ、これはもともと古い時代からある『母子』信仰がベースになっているのではないか」と指摘されていたのが印象的でした。

たしかに。そうですよね。

この神様たちを、母と子という設定にしなくたっていいですよ。
父子でもいいし、兄弟でもいい。
でも、あえて母子というところにポイントがあるかもしれない。古代の母系社会の名残とも言えそうですし、ふとギリシア神話のゼウスと母神レアー、エジプト神話のホルスと母神イシスを連想します。

展示にもこの、空海さんと母子神二柱の絵図や、後代にその2柱に二人の女神を付け加えたスタイル(四社明神)の絵図も多数展示されていました。
仏像もありましたが、この展示で強調されているのは「神と仏」という側面だったように思います。神を敬い仏を敬うというスタイルは、高野山では全く矛盾せず今も連綿と祀られ続けている、とそこのところを強調されているのかな?と感じました。

出来るだけ、近いうちに高野山に行かないといけないな~。ほんと。

(続く)

【関西旅】③熊野は隈の地。籠りの地。/『山の神仏』展@大阪市立美術館


熊野は「隠国(こもりく)」。神霊のこもり隠れる場所

熊野三山と言いますと、熊野本宮・速玉・那智の三社のことですよね。こちらも吉野とはまた違った意味で、信仰活動がずーっと盛んだった地域です。あまりに重層的で、どう説明したらいいか、私のような素人にはもうお手上げ状態ではありますが、この素晴らしい図録の寄稿「熊野の神仏」(植島啓司氏執筆)を拝読していて、頭の中がだいぶ整理されてきました。

ちなみに、『日本歴史地名大系』を調べてみますと、「熊野」という言葉は、『国造本紀』に景行天皇のときに、大阿斗足尼という人を「熊野国」の国造に任命したとあるそうで、そこが最古みたい。

この熊野国はその後、紀伊国牟婁郡(むろごおり)となったそうなのですが、この「牟婁」は「室」のことで、神霊の隠れ籠るところを「神奈備の御室(みむろ)」というらしいのですが、この「御室」と同じ意味。でもって「熊野」の「くま」も「熊は隈にてこもる義にして」(続風土記)だそうで、同じ意味なんだそうです。

そして、この熊(隈)は、「死者の霊のこもるところ」という意味もあり、そのような地を万葉集では「隠国(こもりく)」と呼んでいたそうなんですが、「クマ」「コモ」というのも同じ意味を指すそうで、つまり、熊野国も「隠国」という意味の国名だった、と。

すみません、なんだかまわりくどい書き方になってますけど、ざっくり言ってしまえば、クマ野という名前を持つこの国は、昔から「神の国」「霊の国」、もっと言ってしまえば「あの世」みたいな意味合いを持っている場所だった、と言えますね。

この言葉の意味を前提として、また図録に戻りますと。

おおお、なるほど!
熊野の参籠についてのところ、

「それらの多くが目指したのは「籠り」(インキュベーション)ということであって、山林での修行のみならず、いずこかに籠って夢や瞑想を通じて何らかの啓示〔託宣〕を得るところであった」(P199)

とあります。

なんとなく、吉野との違いがあるような気がしますよね!吉野は山林を駆け巡る行がメインな感じで、熊野は瞑想したりして静かに籠る感じ。

吉野と熊野。
動と静。陽と隠。生と死。男性と女性。

といったイメージ。

そういえば、熊野には国生みの女神・イザナミノミコトの墓所と言われる花窟神社がありますし。ね。もちろんそんな単純な対比では間違っちゃうかもしれませんが、ざっくりとしたイメージとしてはありなんじゃないでしょうか、これ。
untitled上の写真は、10年ほど前に花窟神社のお祭りを見に行った時の写真。このおおきな岩がご神体で、この岩壁に大きく空いた穴がイザナミノミコトの被葬地とされてます。

この神社があるエリアは、熊野の中でも最古層の神域、神籬(ひもろぎ)だった場所みたいですね。図録によりますと、そのエリアの神社から、弥生時代の遺跡が発見され、神をまつったような痕跡があったそうで、とにかくもう気が遠くなるように長い間この地には神聖な場所という意味があった、と思われるわけです。

そういう「聖地」だからこそ、新しい宗教だった仏教も入ってきたし、各時代で「あの世」「浄土」ととらえられ、熊野を訪れる人々が列をなした、ということなんでしょう。

平安時代の名品「熊野速玉大神坐像」 
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展示のほうの話もしないとですね。展示のほうも素晴らしいラインナップでした。

とくに、「熊野速玉大神」像(国宝)が素晴らしい!!

上の写真は、園内に飾られていたポスターですが、このポスターの中央にあるお像がこの速玉大神像です。

神像というと、仏像のように凝ったつくりではなく、ちょっと素朴なお像が多いですが、このお像は非常に立派な作りで見事としか言いようがありません。

どっしりとした存在感。いかにも男らしい風貌です。

そのほかに、印象的だったのは「熊野曼荼羅図」でしょうか。熊野の神仏の世界を表わした「熊野曼荼羅図」がとにかくこれでもかとたくさん展示されていました。これらを見ていると、熊野はまさに「宇宙」と言ってもいいんじゃないかというような…。

それにしても、こうして少し熊野のことを知ってきますと、実際にたずねてみたくなりますね。そろそろ呼ばれどきかな?

(続く)

【関西旅】②「山の宗教」修験道の始まりの場所・吉野大峯/『山の神仏』展@大阪市立美術館

吉野といえば「蔵王権現(ざおうごんげん)」
展示の第一部は「吉野大峯」。
『山の神仏』という名前にふさわしいスタートですね!
よく「山の宗教」とも言われる「修験道(しゅげんどう)」が生まれた場所がこの吉野・大峯なのです。

「修験道」というと分かりにくいかもしれませんが、「山伏(やまぶし)」と聞くと、ああ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。時代劇なんかで見かけるあの山伏は、この修験道の行者さんです。

修験道というのは、日本ならではの仏教、ともいうべきもので、日本古来の自然崇拝とインドで生まれ伝達された仏教とが合わさってできた宗教、といったもの。

「極端な言い方をするならば、仏教を父に、神道を母に、いわば仏教と神道という仲の良い夫婦のもとに生まれた子どものような存在である」
(図録P193「吉野大峯の神仏」田中利典氏執筆より引用)

そんなわけで、本来仏教の経典にはない神仏もたくさん出現して今に伝わっています。

この修験道の祖と言われているのが、「役小角(えんのおづぬ)」です。役小角は吉野大峯で修業しているときに、「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)」という、強烈な尊格を感得しました。この「蔵王権現」こそ、修験で最も重要な存在であり、吉野大峯ならではの仏さんなわけです。

以前、吉野の金峯山寺に行った時のレポートで、イラストを描いたことがあったので再喝。
蔵王権現ううむ。あまりこわくない。実際にはもっと激しくて峻烈なかっこいい尊像ですが、でも形を見ていただけたらと思います。

「仏様」と言われると優しげな様子を思い浮かべる人も多いと思いますが、蔵王権現さんはその真逆ですね。青黒い肌に怒りの形相(憤怒相)、左手は刀印を結び、右手には三鈷杵(古代インドの武器の一種で、仏教では法具)を持って振り上げ、右足は大きく蹴り上げています。

先ほど引用した図録にも「深山幽谷を道場に、命がけの難行苦行に身を置く実践宗教・修験道に相応しい力強い尊像である」(P195)とありますが、まさにその通り。厳しい自然の中では、受け止めて慰めてくれる優しい様子の仏さんではなく、叱咤激励してくれる仏さんのほうが相応しいのでしょうね。

展示では、この蔵王権現の尊像をはじめ、吉野の宗教世界を表わす曼荼羅などが展示されていて、その世界を感じさせていただけました。

また蔵王権現以外にも、吉野ならではの神々がいらして、その姿もその曼荼羅をはじめ、いろいろ描かれているのですが、特に印象的だったのは「天河弁財天」を描いた「天川弁財天曼荼羅図」(室町・能満院)ですね。

こちらに掲載することはできませんが、とにかく強烈!弁財天さんと言いますと、だいたい美しい女性の姿で表されますが、この曼荼羅図の弁財天は、顔が蛇で、しかも三つの顔があり、口から宝珠をはいている、というお姿。

弁財天は水にかかわる神さまなので、蛇身の神さまである宇賀神(うがじん)と習合して描かれることも多いのですが、浅学ながら、お顔そのものが「蛇」というのは初めて見ました。すごいなあ。強烈だなあ。ネットで調べてみますと、この像容は有名なんですね。天河弁財天ならではって感じなのでしょうか。

図録がいいかんじ!
さて、このレポートは本展の図録『山の神仏』を読みながら書いていますが、この図録がすごくいいかんじ。
20140527-10ストレートな作りですし、一見そっけない構成ですが、寄稿されてる先生方の文章が私のような素人にもわかりやすいです。なるほどな~、とうなずきながら拝読してます。

そして造本デザインがまたかっこいい!
一見地味ですが、予算も限られてる中でデザイナーさんの工夫が随所にひかります。カバーは色のある紙に二色摺り(黄色の特色とスミ)で抑えてますが、見返しは少し透ける片面色紙に一色印刷で、本扉のタイトルが透けるようになっており、そこから光が放射されているように見えるデザインです。
20140527-9余分なことは一切してない。でも、必要十分で、コンセプトを際立たせる演出をしてくれてます。こういうのは本当にいいデザインですよね。

と、ちょっと話がずれてしまいましたが、話を戻しますと…。

第二部は「熊野三山」ですよ。

(続く)