【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑦絶海に現れる山島「対馬」。領主・宗氏とムナカタの深い関係とは……

博多はとにかくおいしいですよね!
宗像大社で濃厚な時間を過ごすことができ、すっかり満足しつつ、これからの旅がより濃ゆい旅になりそうだな…と期待に胸躍らせながら、博多に戻ります。

そして友人Kと合流。

友人Kは高校時代からの親友で、いろんなところに一緒に旅してきました。沖縄にドはまりするきっかけになった旅も、Kとの二人旅でした。面白がりセンスが近いので、普通の女友達ではなかなかオッケーしてもらえなさそうな場所でもたいがい「いいねえ!」と言ってくれます。今回も突然「対馬に行ってみたい」と言いだした私を、力強く受け止めてくれましたよ。ほんと心強いやつです。

夕ご飯は明日からの旅に備え、軽めにおうどん。「大地のうどん博多駅ちかてん」さんにてごぼてんうどんいただきました。ここのおうどんもてんぷらもめちゃくちゃ美味しかった!
武蔵野うどん圏の私としては、細かいことを言えばこしの強いうどんが好きではありますが、正直言ってうどんならなんでも好き。細かろうが柔らかかろうが、こしがあろうがなかろうが…。
博多のおうどんは、柔らかホワホワですが、こちらのおうどんは切りたて・ゆでたてで、柔らかいけどちょっとこしもあるという、なんとも言えない絶妙さ。お出汁も美味しいし、最高でした。ぜひまた行きたい。
ついつい盛り上がりたくなる博多の夜ですが、明日からの旅に備えて、早めに引き揚げて就寝しました。

絶海に突然現れる「山塊」
博多港から高速船(ジェットフォイル)に乗り、約二時間半。

途中、壱岐に一度停泊した時にも、「壱岐って大きい島だなあ」と驚いたんですけど、対馬が見えてきときに、思わず「おおおお!」と声を出してしまいました。

いきなり山がある!

そんな感じなんです。
対馬が大きな島であることは、知っていました。日本の離島としては、佐渡、奄美大島に続く第三位の大きさです。ここまで大きいと上陸してしまえば「島」感はほとんどないはずです。

そんな予想はしていたものの、実際に見ると、想像を大きく超えてきました。そこには突然「山塊」と言いたいような島が出現したのです。

「対馬は島土の89パーセントが山地」という情報も知ってはいたのですが、なんと言ったらいいんでしょう。想像以上の「山国」感だったのです。

港から中心地「厳原(いずはら)」地区を目指します。

港から見てもますます増していくこの「山」感。

変な言い方ですが、海なし県に生まれた身としては、その土地の属性が「海」なのか「山」なのかは、何かとても大きな違いがあると感じるのです。
離島というのは、圧倒的に「海」です。あの大きな佐渡島でも、やはり「海」の気配が濃厚な気がします。

しかし、この対馬は何か…ちょっと違う。気がする……。

「海」の気配がないわけはないのです。
しかし、「山」なのです。
……なんだこれ?

私たちは、そんな不思議な感覚について話し合いながら、とにかくまずはお腹を見たそう、ということで、厳原の中心にある「ふれあい処つしま」へと向かいました。

山、山言ってても、そりゃまずいただくのは、やはりお魚ですね!
地魚のお刺身の盛り合わせと、アナゴのフライの定食。お魚は奥から「スギ」「サザエ」「イカ」、「ヒラス」、「アナゴ」。どのお魚も、絶品!
アナゴのお刺身なんて初めていただきましたが、めちゃくちゃ美味しかった!ヒラメのエンガワみたいな感じ。アナゴのフライもふわっふわでもトロっと溶けちゃいます。対馬はアナゴの水揚げ量が日本一なんだそうですよ。なるほどなるほど…


「宗」氏の城下町、厳原を歩く
初日は、あまり無理せず厳原観光することになりました。お腹はいっぱいになって、パワーは充てんされたのですが、あまりにも暑い!

土地の人も、こんなに暑いことはめったにないですよ、と言ってましたが、本当に「やばい」暑さです。
ふれあい処つしまから歩いて間もなく、右手に金石城(かねいしじょう)の城壁が見えてきます。金石城は、1528年に宗氏14代・宗将盛(そうまさもり)が館を建立したことに始まり、対馬府中藩こと対馬藩第三代(宗氏22代)、宗義真(よしざね)が1669年櫓門を建立し、城郭として整備されました。天守閣はなかったようですね。
これがその櫓門!
平成2年の復元だそうですが、かっこいいですよね?!

さて、ここから5分ほど歩くと、宗氏の菩提寺である万松院があります。


意外と知らない「宗氏」の根源と宗像の関係
対馬と言えば、宗氏。
日本史で対馬が特にクローズアップされるときには、対馬の領主だった「宗氏」が必ずと言っていいほど出てきますね。しかしこの「宗氏」、意外なことに元々は対馬の人たちではありません。

宗氏は、いろいろな説があるようですが、『国史大辞典』をはじめ、おおどころの解説を読みますと、元は秦氏である惟宗(これむね)氏の末裔のように思われます。

とはいえ、その実在が確実とされている一番古い人物というのが、1274年(文永11)の元寇で戦死した資国(すけくに、助国とも)なんだそうです。思ったよりそんなに古くないんですよね。

この資国は、対馬国守護・地頭だった少弐(しょうに)氏の地頭代として、対馬の国府に居ましたが、そこに元の来襲があり(文永の役)、戦死しました。

助国の死後も、地頭代として対馬の経営にあたりましたが、南北朝末期になり、地頭代から守護職に昇格。北九州にも領地があり、また筑前国守護代も兼ねていたので、宗像郡に本拠地があったのですが、第8代の貞茂(さだしげ)が、1408年に対馬に本拠地を移したんだそうです。

おおお、ここで「宗像郡」!
出た~!!

本拠地にしていた、ということは、定かではありませんけど、宗氏はおそらくこの辺り出身の氏族と考えていいでしょう。
やっぱりいろいろ絡みますよ、ムナカタと対馬!

(続く)