会津と会津人~保科正之さんの件~

福島県会津若松市は、意外と遠い。 Nさんが車を出してくれたので、車で悠々と出かけたけど、5時間ほどかかった。

会津若松は、空気も澄んでいて、なんとなく気高いような気配がした。 ああ、ここが松江中佐を育んだ土地なんだ、と思い、どうしても投影してしまうのかもしれない。
でも、松江さんだけはなくて、この地にゆかりの人々は、さわやかに自分の信念を貫きとおした人たちが多い。藩祖・保科正之、最後の藩主・松平容保。そして、白虎隊。 時代も年齢も立場も違うが、どうもカの人たちには共通する臭いがあって、それを私たちは「会津人」と呼んでいるような気がする。

さて、まずは、名城・鶴ヶ城へ。 この城は、14世紀終わりごろ、のちの会津守護・蘆名氏によって館が作られたのが始まりだそうで、その後、東北の雄がこの城の主となってきた、といっていいだろう。

鶴が城。現在の姿は再建だが、風格と緊張感があってとても美しい。

鶴ヶ城の凛としたたたずまいは、まさに会津人のたたずまいだと思った。美しい。 この城を見ていると、やはり浮かんでくるのは、藩祖保科正之公のことだ。

正之さんは、徳川家3代将軍家光の異母弟。恐妻家だった父・秀忠公は、妻の目を掠めて側室をもったが、その子・正之さんを認知することはなかった。しかし、正之さんは武田信玄の娘たちに守られ成長。9歳を迎えると武田家の旧臣、保科氏の養子になって大名となった。

そして、一大名として実の兄、三代家光公に仕えた。彼が二代目のご落胤であることは周知の事実だったらしい。とはいえ自分の出自を誇ることなく控え目に振舞っていた。
実兄の家光公は、弟がいることを知らなかったという。しかし、正之さんが実は家光公の異母弟である、と教えた人があり、その後、家光公は、控え目で有能な異母弟を愛し、厚く遇した。正之さんもそんな兄の思いを受け止め、尽くしに尽くしてその厚情にこたえた。

この保科正之という人物も、大好きな人物だ。これまた中村彰彦さんの『名君の碑(いしぶみ)』という小説の正之像をうのみにしてるのだけど、とにかくかっこいい。 正之さんの偉業は数えたらきりがないが、ひょっとしたら、精神教育が最も大きな偉業かもしれない。

会津若松市は、平成14年から『あいづっ子宣言』を策定し、実施している。その内容は以下の通り。

『あいづっこ宣言』
1.人をいたわります
2.ありがとう、ごめんなさいを言います
3.がまんをします
4.卑怯なふるまいをしません
5.会津を誇り、年上を敬います
6.夢にむかってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです。

これは、正之さんの教えである『会津藩家訓十五箇条』をもとに、市民で策定したものだという。
この内容をみて、ああ、会津だなあ、とうなづく人は多いだろう。

つまり、こういう信念を持ち、貫こうとすると、会津人になる。 先の松江中佐しかり。保科正之公しかり。

それは時に悲劇的な結末を呼ぶことがあるが、貫いて死ぬことはけして悪いことではない、と思ってしまうのは私が日本人だからだろうか。

とはいえ、白虎隊の話は、あまりに痛ましいと思ってしまう。それは彼らがまだ10代の少年たちだったからだし、凄烈に過ぎるからだ。 会津城の訪ねた後、私たちは、戊辰戦争(会津戦争)の舞台、滝沢本陣と飯盛山を訪ねた。

(会津と会津人~白虎隊の件~に続く)

 

会津と会津人~松江豊寿さんの件~

歴史好きだという人にどのあたりが好きですか?と聞くと「会津が好きです」という人は多いと思う。場所も、人も。
かくいう私もご多分にもれず、会津は大好きだ。

始まりは『二つの山河』(中村彰彦著)だった。あまりにも有名な作品なので、ご存知の方も多いだろう。第一次世界大戦の後、徳島「板東俘虜収容所」の所長を務めた、松江豊寿(とよひさ)大佐と彼が起こした宝物のような出来事の話だ。

何度読んでも、必ず泣いてしまう一冊。

松江豊寿さんはその後少将になり、会津若松市の市長になった人物だが、この本を読むと、なんと美しい生き方の人がいるんだろう!とため息をついてしまうほど。

第一次大戦の際、日本は戦勝国の一つだった。この坂東俘虜収容所は、青島陥落で投降したドイツ人兵を収容するための収容所だった。
松江さんは、ドイツ兵を「敗者」として扱わなかった。『人間』として尊重したのだ。それはこの時代においては、ほとんど奇跡のような出来事だった。
その奇跡のような出来事でこの小説は成り立っていて、好きなエピソードを上げていったら全部紹介しなくてはならなくなるので、細かい紹介はあえて避ける(この小説は、あっという間に読める小篇なので、ぜひ、手に取っていただきたい)。

松江さんが、なぜこれほど人間愛にあふれ、公平で、チャーミングだったのか。著者の中村さんはその根拠のひとつを「会津人」に置いている。

会津藩、および会津人の気質について語ろうとすると、一晩でも語れてしまうような気がする。他者を気遣い、誇り高く、信念のために命を賭す…。特に幕末の会津藩の振る舞い、会津人の性質というのは感嘆するほかない。これこそ新渡戸稲造博士のいう『武士道』のサムライなんじゃないか、と思う。

さて。

実は、そんなに会津が好きだと言いながら、恥ずかしながら会津に行ったことがなかった。昨年夏、たまたまさそって下さる方がいて、またその方が会津にとてつもなく詳しく、案内して下さる、というぜいたくな旅をすることができた。

当時、大震災と原発事故のために、福島県はかつてない苦境に立たされていた。同行者Nさんは福島をとても愛しており、「こんな時だからこそ、いつもどおりに、いつも以上に福島に行きたいんだよ」と言った。なるほど、それはとてもよくわかる。
私もぜひご一緒させて下さい、とお願いした。Nさんはとても喜んでくれた。

福島への旅はこうして始まった。

(次回「会津と会津人~会津若松へ~」に続く)