驚愕するほかない圧倒的文化力と人間力/②『原三溪の美術』展@横浜美術館

前回より続く)

三溪が三溪たるゆえんあり

原三溪は1868年に岐阜で生まれました。本名を富太郎といいます。生家の青木家は代々庄屋で、お父さんは村長、お母さんは、文人南画家・高橋杏村の娘という、文化的・芸術的素養の高い環境で成長します。幼いころから秀才の誉れ高く、画についても周囲に一目も二目も置かれたいたようです。

今回、改めて驚いたのは、少年時代に三溪が描いた絵です。

(写真は図録より引用)

「乱牛図」というこの画を書いたのは、16歳の時なんだそうですよ。

うまい!

しかも、単にうまいと言うだけでなく、何とも言えない味があります。人間的明るさ、と言ってもいいかもしれない。

この乱牛図にしてもここまでたくさん水牛描く??…と思いますけど(そういうテーマではあるんですけども)、ひとつひとつがとても愛らしくて、人物も童画のようでほほえましい。やややりすぎな極まり感はあるのに、何ともいえない愛嬌もある。その後の三溪さんの姿が、すでにもうここにあるような気がします。

三溪は、いわば環境エリートだと思います。質のいい教育--今の受験勉強のようなものではなくて、人間力や創造力、美意識を高めるような教養を身につける教育を、物心ついた時から自然と授けられてたんですね。

元大蔵大臣・井上馨から、破格の一万円で譲り受けた『孔雀明王像』

そんな富太郎少年は、17の時上京します。今の早稲田大学の前身である東京専門学校に入学しますが、7年後退学。どうもいろいろあったみたいですね。そしてそれから横浜の生糸商・原善三郎の孫娘に婿入り。原富太郎と名乗るようになります。この時24歳。

コレクションを開始したのは、翌年の25歳からだそうで、婿養子だったのに大丈夫だったのかな?と、心配になってしまうようなスピード感ですね。

そして、コレクターとしてその名が大きく知られるようになったのは、35歳(!)の時。元大蔵大臣の井上馨から当時としては破格の一万円で『孔雀明王像』を購入したことによってでした。

その『孔雀明王像』が、今回ポスターなどに登場しているこの画ですね。

 

現在は国宝に指定されて、東京国立博物館に収蔵されています。

現物を拝見したのは初めてだったんですけども、それにしてもすごい画でした。

儀軌通りで、お手本のようでありながら、同じ構図の他のものと比べても、圧倒的な存在感。あまりに美しくて、目が覚める思いがしましたよ。

図録などを見ても、その来歴は「井上馨蔵」で止まってしまいます。それ以前はどうだったのかがわかりませんが、これは相当に本筋のお寺さんにあったに違いないですよ。本筋中の本筋。おそらくは東密系のど真ん中のお寺さんの秘宝だったと思います。

それにしてもこんなにすごいものが、外に出ちゃう時代だったのか…と、改めて当時の混乱を思います。この画は、お寺さんの外には本来出るべきものじゃないですもの。

残念ながらこちらの公開は8/7まででしたので、もう見られないのですが、東博さんで公開することもあるでしょう。その時には、ぜひ本物をご覧ください!

怒涛の如く押し寄せてくる名品の数々

とはいえ、ですよ。

はっきり言って、三溪さんのコレクションは、みんなそんな感じですね。なんでこれを個人で所有できるの?!と言った名品ばかりです。もちろん今回の展示は、5000点を超えたという蒐集物の中からの約150点ですので、選りすぐりの名品だろうと思います。しかし、ほかの物もきっとすごいはず。三溪さんのおめがねにかなうものは、一流のもの以外あり得なかったんじゃないかと思うのです。

そして、『孔雀明王像』と同じくらい、うわあっと思ったのは次の観音像です。

こ、これは……。個人で所蔵していいお像ではない……

しかし、なんだか見覚えがあります。現在は細見美術館蔵だそうなので、そこで見たのかな?と思って調べてみたら、奈良国立博物館寄託になっていました。そうそう、そういえば奈良博で拝観したことがあったような気がします。

そして一方で、秋篠寺の「十一面観音像」(重要文化財)を連想しました。平安初期のいわゆる貞観仏、一木造りのまさに王道的名像だとも思います。

そして、個人的に心惹かれたのは、こちらの白衣観音さん。鎌倉幕府三代将軍・源実朝によるものだそうです。

優しい線ですよね。慈悲のほとけ・観音さんそのものです。

実朝さんは、やっぱり将軍にはなりたくなかっただろうなあ。こんな優しい画を描いちゃう人は、政治はむかないでしょう。
三溪さんは、実業家であり蒐集家・アーティストであったという自分自身の属性から、本業が別にある人の画や書を集めていたそうなんですが、こちらはまさにその代表ですね。宮本武蔵が描いたという布袋図も二点ありましたが、それもすごく良かった。宮本武蔵の画って、ほんとすごいですよね。

つまりは、人間的魅力の凄さ、かも…

……そんなこんなで。

実にすごいコレクションでした。

お茶道具もすごかった、三溪さんがパトロンとなった現代日本画の巨匠たちの画もすごかった。横山大観、下村観山、安田靫彦、小林古径、名だたる巨匠は三溪の支えを得て大成したと言っていいでしょう。

彼ひとりに内蔵された文化力たるや。破格すぎて、言葉もありません。

最後になりますが、もう一つ。何とも晴れやかで微笑ましいこちらをご紹介したいと思います。

三溪が描いた、蓮の花の画です。

三溪は、蓮の花を好んで描いたそうなのですが、この画は63歳の時、日本画家の小林古径に贈られたものなんだそうです(古径は三溪の支援を受けていました)。

一般的にいったら、三溪さんはもちろんものすごく上手いですよ。でも、小林古径にですからね。超絶上手い小林古径に自分で描いた絵を贈るって、すごいですよ。

しかし、この画を見ると、三溪の人となり~朗らかさ、明るさが溢れていて、きっとなんのてらいもなく「なかなかよく描けたよ」なんて言って、無邪気にプレゼントしたんだろうな、と想像します。

古径もこれを喜んで、きれいに表装してもらって、三溪自身に箱書きをお願いしたそうなんですが、三溪はその表装の美しさをとても喜んだんだそうです。

なんか、いい話ですよね。

結局、教養や美意識の凄さだけじゃない気がします。三溪と言う人の魅力と言いましょうか。きっと三溪は、ものすごく魅力的な人だったんでしょう。だから良い人も良いものも集まってきたのではないか、と思います。

…さて、長くなってしまいましたが、会期は9月1日までだそうです。これまた油断してたら見逃しちゃいますよ!ぜひ、忘れずに観に行って下さいね。

(むとう)

原三溪という美意識の巨人と、改めて出会う絶好のチャンス!/①『原三溪の美術』展@横浜美術館

日本文化の恩人のひとり・「原三溪」という巨人

先日の『優しいほとけ・怖いほとけ』展@根津美術館の余韻も冷めやらぬうちにと、横浜美術館で開催している『原三溪の美術』展に行ってきました!

いやもう、ほんとね。これはもう、ぜひとも足を運んでいただきたい!

根津美術館は、青山翁の収集した逸品を今も所蔵していますから、今後も見るチャンスはあるんじゃないかと思いますけども、三溪のコレクションは、日本中のこれぞという美術館・博物館に分散して収蔵されてますので、一堂に会するなんて、今後もまずないんじゃないかと思うのです。

今回の展示では、原三溪という人がどんな美意識を持った巨人であったかを、流れを置いながら全体として感じられると思います。本当に、必見です!

さて。

三溪さんと言えば、横浜の人だったら「三溪園」の人だよ~、と言えば「ああ!」と分かると思うんですけど、一般的にはどうでしょうか。ご存じない方もいらっしゃるかもしれません。

ものすごくざっくり説明してしまいますと、原三溪と言う人は、明治・大正・昭和にかけて、生糸商として大成功をおさめた大実業家で、大コレクターで、お茶人としてもものすごく高名な方です。根津美術館の青山翁より8つ年下になりますが、ほぼ属性は共通していますね。

この時代の実業家は、お金をもうけたら、日本文化のコレクションや、芸術家へのパトロネージへつぎ込む、というのがある意味定石。当時は、帝国主義の時代。アジアの小国であった日本の文化は、危機的状況にさらされていました。そんな中、文化をどうにか守り、前進させていこうとする志を持っていたとも言えると思います。彼らのような実業家が買ってくれていなかったら、もっともっと多くの逸品が海外に流出していたでしょう。日本美術界、と言うよりも日本文化の恩人の一人と言ってもいいんじゃないでしょうか。

三溪園と石造美術界の至宝・西村金造師の仕事

さて、ここでまた個人的な話になりますが、私にとって三溪さんとの出会いと言うのは、西村金造先生の作品集を編集した時にさかのぼります。

金造先生は、京都白川で代々石大工をされてきた家に生まれ大成された、現代最高の石大工です。そんな先生の作品集を担当させていただけることになった20代の私は、まさに天にも昇る心もちでした。

そうして出来上がったのがこちら。

そしてこの中に掲載するためにと、三溪園に安置されている先生の石塔と灯籠を撮影に行ったのです。それが私と三溪さんとの出会いでした。

取材前に、先生と執筆者のSさんと一緒に三溪園を訪れた時のこと、今も鮮明に覚えているのは、三溪園内の茶室(春草廬)の手前に、石棺(奈良の古墳から出土したもの)が景物として置かれていたことでした。

ひえええ、持ってきちゃったんだ~~~!

と思わず叫びましたね。
ほんと、お茶人はこういうことするんですよ。

「メメント・モリ」ということなんでしょうか。戦国時代のお茶人なんて、まさにそうですよね。命がけの不遜というか、アナーキーと言うか……。明治期のお茶人にも、その気風は見事に受け継がれていたんだな、と。それは、三溪園全体に溢れている美意識でもあるのですが、この石棺にはそれが特に強く凝縮されているように思ったんです。

そう思いながら身を震わしていると、先生が、「あんたも少しはわかってきたんかな」と言って笑いました。

いえいえ、わかってません。そんな凄まじい生き方できません!と首を振る私。

この時の印象が、私の中での「三溪」像となりました。三溪園と言うのは、そんな三溪さんの魂がこもったすごい場所なのです。

ちなみに、この二点が(当時)、三溪園に安置されている金造先生の作品です。先生は、そんな凄まじい気概と美意識が渦巻く場所で、いずれも本歌のあるものではありますが、ご自分の作品でもって、勝負してるんだ…。わかってはいましたけど、すごい、覚悟が違い過ぎる!

そんなふうに思って、また身を震わす私。そんな私を横目に、

「あんたはんも、本屋なんやから、いい本作らなあかんで」

そう言って、にやりと笑いました。

私は思わず後ずさりました。私に、そんな覚悟はあるだろうか、と……。

金造先生は、私にとってあらゆる意味で「師匠」と、私は勝手に思っているのですが、特に大きな学びをいただいたのは、このような意識、覚悟といった点だと思います。

あれからもう10年以上たちますが、先生に教えていただいたことは、今も変わらず心にあります。そのすべてが新鮮なまま、ことあるごとに、私に問いかけてくるのです。

そんな私にとって、三溪のコレクションを見られるというのは、金造先生に教えていただいた大切なことを、改めて確認できる、そんな機会でもありました。

そして、その期待は、十分以上にかなえられました。実に素晴らしい展示だったのです!

(続く)