「令和」の典拠となった万葉集「梅花の宴」。浮かび上がる古代史の実像とは?!/『万葉集に隠された古代史の真実』関裕二著(PHP文庫)

古代史ファンにはお馴染み!関裕二先生のご本の編集をお手伝いさせていただきました!ちょっとフライングのご紹介ですが、発売は8月1日になります。

テーマはずばり『万葉集』。
時節柄ぴったりですよね!?

本書はもともと実業之日本社さんで『なぜ「万葉集」は古代史の真相を封印したのか』として刊行されていましたが、タイトルを改定しまして全体的に再編集。先生に加筆をお願いしました。

新元号「令和」は、史上初めて日本の書物を典拠として選出されたものです。その意味でも、エポックメイキングな元号なわけですが、この元号が「梅花の宴」という場面から選出されたと聞いて、歴史好きはどよめいたんじゃないかと思います。

と言うのも、この場面は「筑後歌壇」歌人たちが勢ぞろいしたという、かなり有名なシーン。正直私もニュースでこの一報を聞いて「あえてあそこから?」と驚き、さらにそれがおそらく中西先生の案であろうと聞いて、「さすが中西先生。学者恐るべし」と思いました。

――為政者の希望通り、和籍を典拠とし、美しい音と漢字をもちいて、これまでとはちょっと雰囲気の違う元号を提案。「希望通りの元号だ」と為政者は大喜びで採用。しかしそんなに素直に喜んでいる場合でもないかもしれない。二重三重に重ねられた言葉に籠められたメッセージに、歴史と言葉の深みを知る学者たちは一瞬でその意味を受け取り、「…ほう」と頷いているのだから…………

とまあ、そんなふうに私は連想してしまったのでした。

これぞ、「学者」の本領ではないでしょうか。学者ならではの戦い方。わかる人にはわかる、毒。時限爆弾のように仕組まれた言葉の意味……

あの場面からあえて選んだ意味を、歴史を意識している人たちはもちろんのこと、後代になっても、その時代の学者が見たら、説明するまでもなく、この時代がどういうものであったかを了解できるであろう元号だからです。くどい言い方をしてしまいましたが、『万葉集』こそ、まさにその元祖ではないか。そのあたりのことを、明確に語ってくださっているのが、関先生のこの一冊なのです。

『万葉集』は、単なる文学作品ではない。そこに籠められた公では語られない歴史の真相を、私たちは感じ取り、読み解くべきではないか……。

先生はそんなふうにおっしゃいます。

「梅花の宴」はその代表的なものですが、実は『万葉集』そのものに、正史には取り上げられなかった者たちの実像が描かれているのです。

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-76953-0

ぜひぜひ、お手に取ってみてくださいね~!

(むとう)

葛城山・吉野・金剛山~大和から河内へ。役行者を巡る旅~

11月初めに、葛城山、吉野、金剛山を旅してきました。

来年、修験道に関する本を書くことになったので、そのプレ取材です。
何ごともその場所に行かないと始まらない、という私のクセでありまして、今回も修験道と言えば、まずは役小角さんだろうということで、歴史上の役小角さんがいたであろう地を、歩いてきたんですね。

吉野の方は、度々訪ねてますが、葛城山と金剛山は初めてです。以前から、葛城山と金剛山は歩いてみたいと思っていたんですが、関東在住の身からしたら、なかなかに遠くて……。何かのついで、というわけにはいかない場所ですからね。
しかし、今回はお仕事でも必要だし!と、思い切って歩くことができました。

今回は、小角生誕の地、吉祥草寺を皮切りに、葛城山山頂→葛城山山麓(御所市)→吉野→金剛山山頂→金剛山山麓(河内長野市)というルート。

今回も、自分で日程設定しといてこう言うのなんですけど、かなり過酷でした。
頑張りました。
精いっぱい歩きました。
でも、時間が圧倒的に足りなかった!

それなりに、と思って、四泊五日取ったんですけど、甘かった……

しかし、とはいえ。

やはり実際に歩いてみないと分からないことがたくさんありました。
行ってよかったです。
(写真:葛城山山頂からのぞむ金剛山。綺麗でした!)

なぜ、「役小角」という超人があの場所に生まれ、修行し、活躍したのか。
日本文化の基盤である「山岳宗教」の大きな流れの突端が、なぜ、あの地なのか。

そんなことを考え始めるには、もってこいの取材ができたと思います。

今のところ、俄然私の中で盛り上がっているのは、「河内国」の存在感です。
大阪って、こういう側面からももっともっと全国に知られるべきすごい場所ですよ!!ほんとに!
メディアでこの手のことをご紹介するときに、土地勘もない関東の我々は、どうしても大和国からアプローチします。それも大切なことなんですが、しかしそれだけだと、かなりな片手落ちなんだなと、痛感しました。

このあたりのことは、来年の本にがっちり書きたいと思いますが、来月からもうちょっとライト目に、WEB版BE-PALさんでも、書かせていただくことになりそうです。

どうやって書こうかなあ、とちょっと迷い中です…^^;。

(むとう)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】①「海の国・日本」の大切なルーツをたどりたい

「日本文化」のおおもとを感じたい

40年余りの人生を振り返ってみますと、どうも私は、自分自身が生まれ育ったこの「日本」という国のおおもとを感じたい、という欲求に突き動かされ、動き回っているような気がします。

きっかけはひょっとしたら、子どもの頃に、縄文土器を見つけたことかもしれません。私が生まれた家は、縄文時代の住居跡の上にあり、発掘調査は済んでましたが、それでもちょっと掘れば土器の破片が出てくる場所でした。

その縄文土器はおそらく後期ぐらいのものだったんでしょうね。かなりデコラティブな文様のものもあって、そりゃもうかっこよかった。
と同時に、弥生時代と思われる薄い土器や、もっと下った時代と思われる土師器も一緒に出てきました。実際には重層的に積み重なっていたんでしょうけど、子どもが穴を掘るので、結局混ざって出てきているような感じになるわけですね。

私が暮らすこの土地には、信じられないほど長い時間、誰かが暮らしていた――。

そう考えると、何とも言えない豊かな気持ちになるんです。
私もいつか、その大きな流れの流れに帰っていくんだ、そんなふうに思うと、私は孤独ではない、そう感じられてホッとしたものでした。

そんな経験があったからでしょうか。

そうした気持ちを感じられる場所が、私の大好きな場所になりました。そんな場所はつまり、「太古から繋がる何かとアクセスしやすい場所」ということになるのです。

それは不思議と縄文時代の遺跡や、古墳、お寺や神社がある場所と重なります。
どんな時代でも、「ここは…?!」と、人間が感じる場所はそうそう変わらないということでしょう。なんとなく気持ちがいい、畏れ多い、感謝したい、そんな気がふと起こってしまう場所というのは、いつの時代でも共通なのではないでしょうか。

(写真:飛行機から見た富士山。富士山もまさにそんな場所ですね!)


古代日本を動かしていた海人族、安曇(あずみ)氏と宗像(むなかた)氏

さて、私たちが暮らす「日本」の最大の特徴は、「島国」だということでしょう。
島国ということは、四方を海に囲まれていますから、海を自由に行き来できる技術を持った人たち「海人族」が力を持つようになる、ということは自然な流れです。

そんな海人族の中でも、特に有名なのは、安曇(あずみ)氏、そして宗像(むなかた)氏です。
「安曇」と聞くと、信州の安曇野を思い浮かべる人も多いかと思いますが、それ、正解です。安曇野は山間部にありますが、安曇氏は日本中に散らばって今も地名や神社などにその姿を残しています。

そして「宗像」氏。――「むなかた」。
最近耳にしたことがあるという人は多いのではないかと思います。
つい数週間前に、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が世界遺産に登録されることが決定しましたね。

この「沖ノ島」は、祭祀が行われていたその姿をそのまま今に伝えている大変貴重な場所ですが、そもそも「宗像大社」の「沖津宮」です。

(写真:宗像大社・辺津宮正面。一般的には宗像大社といったらここを想像するかもしれませんが、宗像大社そのうちのひとつ、ということなんですね)
私は、かねてよりこの「安曇氏」と「宗像氏」などの海の民の本拠地であるこの地域に興味津々でした。奇しくも、というか必然なのかもしれませんが、この海人族は両方とも北九州で発生した氏族なのです。
安曇氏の発祥地は「筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県粕屋郡新宮町)」とされていて、宗像大社から20キロしか離れていない場所にあります。ほんとに近いですよね。
この至近距離から、これだけの勢力を持つに至った氏族が二つ出ているというのは、偶然ではないのでしょう。それだけ、この海域が重要な場所だったということを想像させます。

安曇氏も、宗像氏も今の日本の礎となるような、重要な存在です。
…ううう。
これは、やっぱり実際にその場に行ってみたい。その場に立ってみたいですね。

(続く)