About 武藤 郁子

神仏・聖地探訪家。編集者兼ライターとして神仏や聖地、歴史や自然をテーマに活動中。著書に『縄文神社 首都圏篇』(飛鳥新社)、『縄文神社 関東甲信篇』(双葉社)、共著に『今を生きるための密教』(天夢人)がある。2024年6月『空海と密教解剖図鑑』(エクスナレッジ)を上梓。

file.121 小松屋本店の「つる」

いちにちいちあんこ埼玉県生まれ埼玉育ちなワタクシ。
老舗の有名どころは押えているつもりでしたが、恥ずかしながらこちらは知らなかったです。

世界遺産に登録された和紙・細川紙の産地、小川町と東秩父村というところにある小松屋本店さんの銘菓「つる」。母が買ってきてくれました!

なんとこちらの小松屋本店さんは、創業が1791年、寛政三年という老舗。当主の豊田さんは、全国和菓子協会で選出している「選・和菓子職」認定の職人さんのこと。

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創業当時から続いているという銘菓「つる」。
どんなあんこものなんでしょう?
20160624-2あら?
なんかどっかでみたことあるな…。いや、気のせいかな。
20160624-3あれ~!?
何だろう、ものすごく見覚えがある?!
これ、うんと昔に秩父のスーパーで買ったことあるな。うん!

この白い粉に見えますのは、砂糖ではなく上新粉みたいなサラサラしたもので、あわい甘さ。

皮は、黒糖風味の甘食みたいなかんじ。あんこはこし餡ですが、甘さ控えめで、白い部分、黒糖の皮、こし餡の甘味がほぼイコールって感じ。
一口いただくと渾然一体となって、さらっと食べられちゃいます。素朴で美味しい!

ところで、なぜこのお菓子が「つる」という名前なのか、気になりますよね?
小松屋本店さんのHPをみても何も書いていません。いろいろ調べてみたら、店主の方のインタビューを発見しまして、その中で「由来がわからないんです」と店主さんも言ってましたw。

そうなんだ~^^;。
いえ、じつは私、即座に連想したものがあります。
それは「鶴の子餅」です!
関東では「すあま」と呼んだりしますが、卵型の紅白のお餅のこと。

楕円形で、平べったい上新粉を使ったお餅なんですけど、なんか形がちょっと似てませんか?

埼玉はもちろんのこと、お店のある東秩父村も、お米よりは麦のほうがとれるようなお土地柄です。小麦のほうが手に入りやすいので、上新粉ではなく小麦粉のお菓子を作ったんじゃないかな。そしてなかにはあんこ、外側には白いものをまとわせてみたんじゃないかな。
名前のほうも、長い年月の中で、「鶴の子」の「の子」が取れて「つる」になっちゃった、みたいな?

なんて。
勝手な想像ですけどね。

小松屋本店さんでは、上生菓子なんかもいろいろ作ってらっしゃるみたいなので、ぜひ次回は実際にお邪魔してみたいと思います!

小松屋本店
http://komatuyahonten.net/pastry.html

松下幸之助氏が「美しい経済人」と呼んだ経営者、大原總一郎氏の鮮烈な生きざま!『天あり、命(めい)あり』/江上剛著

倉敷へ行きますと、素晴らしい街並みと共に大原美術館の素晴らしさに驚きます。

と、言いましても私が倉敷を訪ねたのはもう、10年以上前の話ですが、正直言ってあれだけの美術館があの場所にあることに、さらに私立であることに本当に驚きました。

そして、大原美術館を設立した「大原孫三郎」という人物が、あの「クラレ」(の前身・倉敷絹織)創業者である、それくらいのことは初歩情報として知っていましたが、そのあとを継いだ人物「大原總一郎」が、あの過酷な戦中・戦後を乗り切った、まさに「魂の」経営者であることを知ったのは、本書の編集をお手伝いさせていただいたことがきっかけでした。

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私は本書を拝読して、

「ああ、こんな理想を語る経営者の会社なら、ぜひとも働いてみたい」
そう思いました。とにかく、「志」が高い方なのです。

私は以前から、経営者に必要なのは「志」なんじゃないか、と僭越ながら思っております。自分がサラリーマンだったときもいつもそう思っていました。
経営者じゃなくても、上に立つ人、と言ってもいいかもしれません。上に立つ人が志を持てば、各分野のスキルのある人物がそれを支えることもできます。そこさえブレなければ、困難できつい道もどうにか突き進むことができる。そう思うのです。

理想主義者だと、きれいごとと言われてしまうかもしれないけど、どうかやらせてほしい、ついてきてほしい、そういうことを部下にいいながら、誰よりも働き、実現させました。……そして、あっという間に天国へ行ってしまった。

松下幸之助さんが「美しい経済人」と呼んだことの意味が、とてもよくわかります。

そして、なんといっても江上先生。先生の誠実で温かい筆致は、まるで本当に大原總一郎氏がそこで語っているように感じられます。

本書は「経済人ノンフィクションノベル」ですので、経営に興味のある方はもちろんですが、経済に興味がない人もぜひ読んでみてください。

58年の人生を生き切った、一人の「美しい人」の人生を知ることで、何か心にあつい勇気が生まれてくるのではないか、と思います。

(むとう)

【2016沖縄旅】②「ヤマト」と「ヤマトンチュ」

「ヤマト」から来た人
沖縄に行くと、
「どこから来た? ヤマトからね~?」
なんて話しかけられることがよくあります。

「ヤマト」とは、本州など、沖縄以外の日本のことをさします。そして、ヤマトの人のことを「ヤマトンチュ」、また「ナイチ(内地)」、「ナイチャー」というのもあります。
以前ですと、「ナイチャー」と言うと少々マイナスの意味合いがあったようですが、今はだいたいニュートラルな意味で使われるように思います。

私が初めて沖縄を旅した時、「ヤマトから来た?」と聞かれて、「ほへ?!」と一瞬考えて、「そ、そうです」と答えたことを印象深く覚えています。

なぜ一瞬考えたかとと言うと、私は自分がヤマト(大和)の人間であると思ったことが一度もなかったからです。あえて言うなら私は「ムサシ(武蔵)」の人間というか……。

敬愛する歴史家・網野善彦先生も、沖縄を訪ねたときに「ヤマトの人」と言われて、その都度「自分はヤマトの人という意識は持ち合わせていない、あえて言うなら甲州人です、と答えた」とも書かれてます。
私はそれを読んで「網野先生もそう思いますか?私もです!」と膝を叩いたものでした。

だって、ヤマトといったら「大和」ですよね。大和と言えば、今でいうと奈良県のあたりですもん。奈良は大好きな場所ですけど、それとこれとは別問題。
もし、ヤマト朝廷という意味で広義にとるにしても、関西発の政権であって、関東の人間にとっては外から来たもの。自分がヤマトの人間とは思ってないんじゃないかな、なんて思うわけです。

先日沖縄の友人にこの話をしましたら、え!そうなの?そう思うんだ!とびっくりしてましたが、そうかそういえばこういう話はしたことがなかったかも…
あ、でも、そう思うのは、私が歴史に興味があるから感じる感覚・こだわりなのかもしれない、一般的な感覚とはちょっと違うかも…。
もちろん、いやだとかってことじゃないよ~!…なんて話したのでした。

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〔写真・本文と関係ないですけど、大好きなナカグスクの写真、アゲイン)

いつから「ヤマト」?
さて、そういえばちゃんと考えたことがありませんでしたが、ウチナンチュが「ヤマト」と呼ぶようになったのはいつからなんでしょうか。

ちょこちょこっと調べてみましたが、やっぱり辞書などはすぐには発見できません。
そこで、困った時の沖縄学の父・伊波普猷先生の『古琉球』へ…

随分久しぶりに手に取りましたが、昔読んだときは意味わかってなかったんですね、改めて読むとすごく面白い!だいぶ理解できる気がします。私も大人になったなあ…

それはともかく、ぐいぐい読み進めていきますと……
あ、ありました!論考「琉球人の祖先に就いて」の中に、次のように書かれています。

「…それから7世紀の頃に南島人が初めて、大和の朝廷に来たことは国史の語るところであって、当時朝廷では訳語(おさ)を設けて相互の意志を通じたという事があるから、分離後六、七〇〇年にして大和言葉と沖縄言葉との間によほどの差異が生じていたと見える。しかし九州地方と南島との交通はそれ以前からあったのであろう。これから十二世紀に至るまで沖縄半島の住民が大和または筑紫に在来していたことはオモロを見てもわかる。何よりもよい証拠は今日に至るまで琉球人は内地のことを大和と言っていることである。後世大和は鹿児島を指すことになって、明治十二年頃の沖縄人は東京を鹿児島と区別するに大大和という語を用いた。……」(P64より引用)

伊波先生は、『おもろそうし』の研究で、日本上古で使われていた古い言葉がたくさん『おもろ』に発見できることなどと、ほかのいくつかの論拠をもって言語学的な立場から、大和民族と沖縄民族のルーツは同じものである、とする立場です。
なので、「分離後六、七〇〇年にして大和言葉と沖縄言葉との間によほどの差異が生じていたと見える」という表現があるんですが、それはさておき……

これを拝見しますと、少なくとも『おもろそうし』の中では、「ヤマト」と呼ばれていることが分かりました。

『おもろそうし』は、琉球古語による沖縄最古の古謡集で、「沖縄の万葉集」と呼ばれたりします。国王により三回にわたって収集され、第一次は1531年、第二次は1613年、第三次は1623年、全1554首・全22巻という大作です。

12世紀ごろからの古謡が収集されている『おもろそうし』ですので、この中にあるということは少なくとも12世紀ごろには「ヤマト」と呼ばれていると思っていいのかなと思います。

「ヤマトンチュ」と呼ばれていたかどうかはちょっとわかりませんが、少なくとも800年あまり、ウチナンチュは、本州人を「ヤマトの人」と呼んできたということですね。

伊波先生の著書を読みますと、日本の古い言葉が沖縄言葉の中にたくさん残されていることを知ることができますが、この「ヤマト」という言葉もそうかもしれません。

たとえば、7・8世紀ぐらいの武蔵国(現在の東京・埼玉付近)でも、「西の方にある大きな政権」のことを「ヤマト」と呼んでたんじゃないかな、なんて想像するのです。
しかし、その後「ヤマト」がトップだった時期は終わり、政権主体も場所も変化していくなかで、呼び方も変化していきましたが、沖縄の中ではその言葉は保存された……。

そう考えますと、「ヤマト」、「ヤマトンチュ」という言葉は、なんとも歴史と趣きのある、奥ゆかしい言葉だと感じます。

「ヤマト」=「大和」という意味ではない。沖縄で、「ヤマト」=「日本列島の住人」という意味で長く使われてきた沖縄言葉ということなんですね。

これまでは、「はい、ヤマトンチュです」と答える時に、

「でも本当は埼玉生まれなんです、ヤマトではないんだけどな~」

という、ちょっと照れくささというか戸惑いがあったのですが、そう考えたらもう戸惑わなくていいのかも、と思うようになりましたw。

(むとう)