About 武藤 郁子

神仏・聖地探訪家。編集者兼ライターとして神仏や聖地、歴史や自然をテーマに活動中。著書に『縄文神社 首都圏篇』(飛鳥新社)、『縄文神社 関東甲信篇』(双葉社)、共著に『今を生きるための密教』(天夢人)がある。2024年6月『空海と密教解剖図鑑』(エクスナレッジ)を上梓。

故宮博物院@台湾に行ってきました!②中国文化と言えば、玉器と青銅器ですよね

5000年を超える中国文化を象徴するものは「玉器」と「青銅器」

故宮博物院を参観するワタクシ。一番最初の部屋(仏教美術)で、思い切りはまってしまって、時間はどんどん過ぎるばかり。しかし、中国文化においては、仏教と言うのはもちろん大切な要素なんですけども、やや新しめの外来文化と言いますか、文化を構成する要素のひとつに過ぎないと言っていいと思います。

じゃあ、中国文化の根幹となっているものとは何か、という話ですよね。

簡潔に言ってしまえば、それは、約5000年余りの間に、中国から発生した様々な神話や宗教、思想などが堆積したものだと言えるでしょう。その重層さ、複雑さ、大量さを思うと、気が遠くなるような気がします。

そんな中国の世界観を一貫して代表しているものとは何かと考えますと、それは「玉」ではないかな、と私は思います。

(5000年ほど前の新石器時代・紅山文化の玉器。詳しくはまた別のレポートで)

「玉」(玉器)はいずれの時代においても、非常に大切にされてきました。日本人にはいまいちピンと来ないと思いますけど、中国文化圏において「玉」への信仰は、並々ならぬものがあります。もちろん世界中で、美しい貴重な石に対する信仰はあるわけですが、中国の「玉」へのこだわりは、ちょっと特殊なかんじがします。

(形骸化してますがこれも玉器と言えなくもない。翡翠でこういう鮮やかなグリーンとなるとミャンマー産。発見されて流通したのは17世紀末からなので、この白菜が製作されたのはそれ以降だと推察できますね。)

そして、「玉器」と同じくらい中国文化で特殊発達をしたのが、「青銅器」でしょう。「紀元前の中国文明の超絶的スゴさ」を体感するためには、「青銅器」を見るといいと思います。

私はこの青銅器が大好きなのです。幸いなことに、日本の文人に青銅器は大変愛されたために、泉屋博古館、根津美術館、奈良博青銅器館(坂本コレクション)など、ものすごいコレクションがいくつもあります。日本は世界でも有数の中国古代青銅器コレクション国なのです。

60年代以降の中国では、考古学的調査によって、たくさんの青銅器が発見されましたが、それ以前では、日本のコレクションと故宮博物院のコレクションが際立っていたんだろうと思います。そして、伝世ものの宝庫と言ったらそれはもう、故宮博物院のコレクションが圧倒的だろう、と私は想像していたのでした。清朝皇室が収集したであろう、伝世の青銅器なんて言ったら、もう、そりゃヤバいでしょう。

ちなみに、「伝世」と私が言っているのは、いつの時代かわからないですが、あるポイントから人の手に渡り、その来歴がある程度明らかなものを指しています。

古代青銅器、やっぱりすごいとしか言いようがない

というわけで、故宮博物院では、この青銅器を見るのがとにかく楽しみでした。想像通り、まさに天国のような状態!

私は思わず「フおおおおお」という奇声を上げ、ガラス越しにかじりつきました。

やっぱりすごいわ。

これだけ状態のいい良質なものが、これでもかと並んでいるなんて。清朝皇室の権力、やっぱ半端ないわ。

まず上の写真の青銅器。

これは、やばい。すごい。

説明には、「召卣、西周早期、酒器、 BC11~10」とあります。この「卣」は、日本語では「ゆう」と読みます。神に捧げる酒を入れる容器のことです。神に捧げる酒器にはたくさんの種類がありますが、「卣」は、楕円形と言うか、アーモンド形のものを言うようです。「漢字」は、私たち日本人が思う以上に、厳密に使い分けられるんですよね。

うわあああ。本当に美しい!!!

……さて。私の感動は、さておき。

このレポートを読んでくれる人は、はたしているのかどうか。古代中国の祭祀について、どれほどの人が興味があるのだろう……と、思うんですけども、もうちょっと青銅器について、レポートさせてください(弱気)。

(次回へと続く)

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?★追記。つまり阿育王信仰…

前回、「銭弘俶塔なのに、銘が905年!?ってどういうこと?」というレポートを書きました。

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?

その後、2004年トーハクさんで開催された『中国国宝展』の図録を読み返してましたら、まさにそのアンサーとなる文章が掲載されていつことに気が付きました!(『中国仏教美術史にみる阿育王信仰』小泉惠英氏執筆)

結論から言うと、私の理解不足でしたが、「阿育王塔」とは、中国で4世紀ぐらいから盛んになった「阿育王信仰」、つまり、仏舎利に関わる信仰の象徴として連綿と中国で作られており、ひとつの様式を伴った塔だったようです。

つまり、「銭弘俶は、阿育王の故事に倣って、阿育王塔の小塔を、阿育王が作ったと伝わる数でもって造塔した」と言ったほうがよかったみたいなのですね。

(ほかの資料によると、いわゆる「阿育王塔」は三層構造だったということなので、日本では、滋賀県にある石塔寺の三重塔が近いんじゃないかと、勝手に連想してみたり。そういや、阿育王塔ってあれそうだよな、と今更気づくニワトリ頭な私。日本にもバッチリ阿育王信仰は伝来しておりましたのですよ。石塔寺については以前、イシブでご紹介したことがあります↓ )

file.4 石塔寺三重塔(滋賀県)

ですので、この故宮博物院の「金塗塔」が、銭弘俶よりも先行していても、まったくおかしくない、ということになります。

なるほどなあ。

自己完結ではありますが、勉強になりました!

(むとう)

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?

突然ですが、台湾に行ってきました!
なんと、我ながら意外なことに初めての台湾!

楽しかったです~~。(余韻)

台湾についてのレポートは、いろんな方向から書いてみたいと思いますが、忘れぬうちに、まずは「故宮博物院」から。

一度は見てみたい、というか見ないといけない故宮博物院。清朝皇室のコレクションの大切なところを、中華民国が持ってきてしまって作った博物館ですから、伝世品のこれはというものは、北京よりもこちらにあるんではないか、という、それはそれでかなり複雑な背景がある場所なわけですが…。

(あいにくの雨でしたが、それはそれで雰囲気ステキでした。)

その複雑さについては、ちょっと今は置いておきまして、忘れないうちにいくつか「おおおお!?」と思ったものについてレポートしておきたいと思います。

前置きはともかく、まずはこちらをご覧ください。


誰がどう見ても有名な「銭弘俶塔(せんこうしゅくとう)」ですね。中国では「金塗塔」「銅阿育王塔」とも呼ばれます。

「銭弘俶塔」というのは、紀元前3世紀ごろ、インドのアショーカ(阿育)王が、八万四千もの塔を造塔したという故事にならって、呉越国王・銭弘俶が、八万四千の塔を作らせたと伝わるもの。銅製、銀製、鉄製のものがあります。日本にも伝来していて、完品としては奈良博さん所蔵の「銭弘俶八万四千塔」があり、ほかに永青文庫所蔵のものも有名ですね。

銭弘俶は熱心な仏教徒で、「散逸してしまった経典を譲ってほしい」なんてお願いを、日本や高麗に使者を出しているほど。また、記録によれば、造塔した塔のうち500を日本に送ったとも言います。

そんなわけで、この形の塔は、一つの塔のスタイル(様式・デザイン)として、とても有名なんです。

……ところがですよ。

んんん??
天佑二年(905)年とありますよ??! あれれ??

ちなみに唐が滅んだのは、その二年後の907年で、呉越国が成立したのは、その後のことです。銭弘俶はその呉越国の五代目(929年生まれ、在位948―978)ですから、905年では影も形もありません。

すると、銭弘俶が作ったとされるこの塔のデザインは、唐末にはすでに存在していた、ということになります。

え~~!?

細かいことは省きますが、デザインとしてはほぼ同じです。あえて言うなら、基壇の下の部分に反花(かえりばな)がないことくらいでしょうか。

すると、インドの阿育王の造塔した塔と、銭弘俶の塔との中間に位置する「阿育王塔」と言えるのかもしれません。しかし、阿育王が作った塔は、どうも石柱っぽいので、こういうかたちではなかったのではないかと思いますけども……。

単に勉強不足で知らなかっただけかもしれませんが、日本で銭弘俶塔について語られている資料では、銭弘俶以前にも同じような塔があった、ということは書いてありません。もっと詳しい資料があったら、どなたか教えてください!

いやあ、ほんと。びっくりしました。

しかし、この塔があるのは、一番最初にみた部屋です。
この塔一つに、これだけかぶりついてしまっている私。明らかにペース配分がおかしいことは、お分かりいただけると思います。

そんなわけで、しばらくは気になった名品の数々を、こつこつとご紹介していくこととにしようと思います。

(つづく)