イシブカツ①石ものには古墳もね~

この一年にわたるイシブカツで、今回、8回目を数えます。実は。
よく考えたら、前回の『板拓』もイシブカツなので、あれがvol.7なんでした。余談ですが、イシブカツは石部活で、「イシブ+部活」の略です。あんまし略せてないけど。

イシブカツは、 できるだけ、月に一度開催。石田石造(女)氏と巡る、めくるめく石ものの世界なわけなんですが、このイシブカツにより、この一年でだいぶ積み重なるものがあったような気がしています。
以前のブカツもまたこちらでご紹介していきたいと思っています。さて、そんなわけでとりあえずライブなところから!

先週の土曜日、AM8:40。高崎線吹上駅に集合。
埼玉のイシブカツの際には、ムトウが車を出すことになってます。 車の中で、大体こんなところに行きましょう、と軽く打ち合わせを終えて、いざ、出発!

まずは、いきなり本日のハイライト、行田市藤原町にある「八幡山古墳」へ。

実は、不勉強なもので、こんなに大きな露出した石室が、埼玉にあるということを知りませんでした。
こちらの存在を知ったのは、イシブカツvol.5で、「古墳へと運ばれた石」@さきたま史跡の博物館という講演会を聴講した際。
講演されたのは栗島義明さん。縄文時代の交易などの論文を書かれている考古学者です。

栗島先生によると、こちらの八幡山古墳は7世紀前期の古墳。中からは、関東では唯一、また畿内でも王族クラスにしか用いられないタイプの棺が出土したそうで、とにかくすごいゴージャスで当時の最先端文化が埋葬されていたそうなんです。

また、問題の石室の建造にも新しい技法をふんだんに取り入れているそうですよ。当時のこのあたりの文化度の高さがしのばれます。

さて、ここでもちろん問題になってくるのは、そうです、「石」です。写真を見ていただくとわかるとおり、この石室に使われている石、めっちゃでかいです!
こんなでかい石、いったいどこから運んできたんだ??って思いますよね?

八幡山古墳の石室とわたし。写真でとるとなんか縮尺がおかしい感じになってしまいます。とにかくでかいのか!と思ってくださいw。

と申しますのも。このあたり(埼玉県中北部)には、山がないんです。見渡す限りの関東平野がドワ~っと広がっていて、めっちゃフラット。
たいして知識のない私にも、こんなに巨大な石はこの辺では取れっこないぞ、と思います。

素材に注目!この青っぽい石には見覚えが…。

それから、この青い石。そうです。板碑に多用される「秩父青石」ではありませんか!?
この石は、ここから車で一時間ほど行ったところの山の方でしかとれません。車で一時間って、結構な距離です。特に、人力ですべて行っていた時代に、こんなにでかい石をわざわざここまで運んだってことですよ?何と最も重い石は14トンもあるんですって!!でか!
切りだすのも大変だし、運ぶのも大変だし、組むのも大変!

そうなってくると、間違いありません。「プロフェッショナル」がいましたよ、これは。石を切り出すプロ、運ぶプロ、石を組むプロ。あ、あと細かいところを加工するプロも必要ですよね。

内部もきれい!人が住めるな…

内部もご覧ください。
ね?なんかすごいきれいでしょ?
柱や天井には青石の板石を使ってるんですよ。そして、壁面にはグレーの石(角閃石安山岩)の切り石を積んでます。ちなみにこのグレーの石は群馬県産なんですって。はるばるだなあ。

この石室を見て感じるのは、設計者の美意識ですよね。明らかに素材の使いやすさだけでなく、造形の美しさや色の組み合わせを考えてデザインしてます。これは相当に高度ですよ!

私も石田氏も、大興奮。石もの、というと中世以降のものが多いのですが、よく考えたら、縄文時代や弥生、古墳時代において、「石」は重要な素材です。こ、これはすごいところに足を踏み入れたぞお!と慄きながら、二人とも、びっくりするような会心の笑顔を浮かべていたのでした。わけわからないのって楽しいですからね!

(イシブカツvol.8②そして王道の板碑もね~続く)

 

 

犬と猫との幸せな日々を…2013。

早いもので、10月も明日で終わりです。
年末といえば、みなさん。カレンダーですよね!!

Tさん編集のカレンダーは最高にかわいい!

実は、以前勤めていた出版社では、動物カレンダーも制作していました。私は、犬・猫を担当してましたが、その時に一緒にカレンダーを作っていたフリー編集者Tさんと久しぶりにお会いしました!

写真のカレンダーはすべてTさんの編集・執筆。4点ともそれぞれとても特徴があって、素敵なので、そのディテイルは、イキモンブでもご紹介していきますが、今日はまずはこのかわいさを一枚の写真でご紹介!!
写真家・植木裕幸さんのあまりにもかわいい犬と猫の写真をこれでもかと詰め込んだ4点。
そろそろ、アマゾンや書店でも販売すると思います。ぜひチェックしてみてくださいね!

会津と会津人~白虎隊の件~

鶴が城を後にして、私たちは、飯盛山へと向かった。
飯盛山はこんもりとしたかわいらしい山だ。「お椀にご飯をもったような」形が語源だったというのもなるほどという優しい雰囲気で、まさかそんな悲劇の現場だとは思わないだろう。

白虎隊についてご存じない方もいらっしゃると思うので、ここで簡単に彼らの概略をお話ししておきたいと思う。

白虎隊は、 旧幕府軍と新政府軍の間で起こった戦い、戊辰戦争で、会津藩に編成された部隊のうち、16~17歳の武士の子供たちで構成された部隊のこと。
会津藩は、旧幕府軍の中心をなしていたため、新政府軍によって徹底的に破壊されたが、白虎隊のうち19人はその戦いの中で、集団自決を遂げたのだ。その痛ましい死を多くの人が悼み、現在も多くの人が追悼に訪れる。その自決の地になったのが、この飯盛山なのである。

1678年に建造された農家建築。木造の建物が、戊辰戦争の本陣となったのに、その後も現存していることが奇跡のようだ。重要文化財。

飯盛山に入る前に、滝沢本陣に立ち寄った。
戊辰戦争の際には、容保(かたもり)公が出陣し、こちらが本陣になったそうで、その当時の弾痕などが生々しく残っていて、戦いの激しさを偲ばせる。

戸ノ口堰。江戸時代初期、猪苗代湖から水を引くために掘られた人工水路。

飯盛山へはここから歩いて3分ほど。
住宅地を歩いて行くと、白虎隊が猪苗代湖から帰ってくるときに通った洞穴「戸ノ口堰(とのぐちせき)」が見えてきた。洞穴といっても人工のもので、猪苗代湖から、会津市内に水をひくために作った水路だという。
こんなに狭くて冷たい水の中を10代の少年たちがこえてきたのかと思うとそれだけでも、切ない気持ちがわいてきてしまう。

江戸時代の「武士」と聞くと、私たちとは違って戦場に赴けるんじゃないか、と思ってしまうが、その考えはたぶん間違っている。
江戸時代は、200年あまり大きな戦がなかった時代だ。武士としての教育は受けていたが、「平和ボケ」している私たちと大差はない。
大義のため、とはいえいきなり人を殺せと言われる。または簡単に人が殺されていく状況を、平然と捉えられるわけがないじゃないか、と思う。しかも彼らはまだ10代の少年たちだった。今の10代より大人びていたかもしれないが、少年は少年だ。実は彼らが自決したのは、判断間違いがあった(城下町が燃えている火を見て、鶴が城が落城したと勘違いした、という)という説がある。が、もしそうだとしても、この状況下で正しい判断ができたかどうかは、大人だって難しい。
飯盛山の中腹に、白虎隊の墓はあった。遠くに鶴が城を望むことができる。
実は、この場所に墓をつくったのには、松江豊寿さんが関係している。
私たちには想像もできないことだが、戊辰戦争後、会津は「逆賊」として、新政府から差別された。戊辰戦争で亡くなった人たちを悼むような行為もおおっぴらにはできなかったのかもしれない。
『二つの山河』(中村彰彦著)によると、白虎隊の墓は、当初は山のかげの狭いところにあったという。しかし、東大総長・京大総長を兼務した理学者・山川健次郎氏が、それを遺憾とし、鶴が城が見える南側の斜面に墓地を移築したいと松江さん(当時市長)に提案した。
松江さんは、直ちに工事着工を決意した、という。

坂東俘虜収容所での松江さんの振る舞いからしたら、これは当然のことだろう。白虎隊の死を悼むことは、そのほかの多くの無名の会津人を弔うことに通じる。彼らの死を「判断違いの」死、ととらえるのではなく、会津人として振舞ったものとして追悼する。これは、誇りを持って前に進むためにも必要な行動だったと思う。

そして現在。
遠くには復元されて鶴が城の天守閣が望める、明るいこの飯盛山の斜面に白虎隊は祀られているのだ。
私たちがここにいる間にも、多くの人が訪れ、何とも言えない表情で手を合わせていた。直接会津に関係なくても、日本人として彼らの生きざまには忸怩たる思いが湧く。
私も、ただ黙って手を合わせ、頭を垂れた。

前回ご紹介した「あいづっこ宣言」がされた土地には、こういう悲劇の物語がある。あいづっこ宣言の、「5.会津を誇り、年上を敬います」には、自分たちの足元にあることを知ろう、ということも含めているんだろうと思う。つくづく、会津はすごいところだ、と思った。

お墓の前には、かわいい柴犬が番をしていた。人懐こく寄ってきてペロペロと手を嘗めてくれた。「番をして」いるというよりは、神妙な表情になった参拝客を慰めてくれているような気がした。なでろなでろ、と体を押し付けてくる柴犬。私も彼の優しさに慰められ、温かい体をなでながら、いつの間にか笑顔になっていた。
なんとなく、そんなことも、会津らしい気がしてジンワリと心が温かくなった。さあ、もう大丈夫ですから笑ってください、と逆に気を使われてしまったような…。少しだけ涙が出た。
(「会津と会津人」・終)