世紀の大発見
さて、椿山荘といえば、大変有名な石灯籠があります。江戸時代から高名だった「般若寺燈籠」です!
かっこいい!!!
素晴らしい調和感と、存在感。やっぱし本物は違うって感じですよ!
さて、この石灯籠、椿山荘のサイトを見ると「般若寺型石灯籠」とあります。「型」というのは、原型となる名物燈籠(これを「本歌」と言います)があり、それを写したもの、という意味ですね。
というものも、実際に奈良の般若寺には般若寺燈籠(上の写真です)と呼ばれるものがあったので、椿山荘の灯籠は、写しという位置づけだったのですが(というよりも忘れ去られていた、と言ってもいいのかな)、石造美術界の巨人、川勝政太郎博士がこちらのほうこそ本歌ではないか、と「再発見」したのでした。
名物・般若寺石灯籠
川勝博士が、椿山荘でこの石灯籠を「発見」した時、この石灯籠は、なんと庭の隅のほう、プールわきに狭いところに無関心なまま置かれていたそうです。
なぜこの石灯籠が、椿山荘にあったのか、来歴はよくわからないそうですが、これだけ素晴らしい石灯籠を、庭好きの山縣公がわからないわけがないと思います。これが般若寺の本歌だということは知らなくても、この石灯籠の素晴らしさを知って、大枚はたいて購入したんじゃないでしょうか。でもその後ほかの人の手に渡るうち、よくわからないまま、放置されていた、ということかな、と想像します。
現在では、庭園全体の修復・再調整も終わり、丘の上の、三重塔の左わきのなかなかいい場所へ移されています。よかったよかった!
#数年前前ではもう一段低い、狭い場所に置かれていてちょっと悲しかったんですよね^^;
「寺社」の灯籠と「庭」の灯籠
ところで、この「灯籠」というものなんですが、灯りをともす器具ですよね。そこまでは間違いないんですが、石灯籠というもの、その本来の目的を知っておくと、視点が変わってくるのでちょっと補足しておきます。私もこのことを師匠N先生に教えていただいて、目から鱗が落ちる思いがしました。
もともと、この灯籠は、「仏さまへの捧げもの」として設置されていました。ですからこの灯りは、仏さまの正面に捧げられるというスタイルが、本来正しいのです。
たとえば、こちら。大仏殿の写真ですが、その正面に有名な国宝・金銅八角燈籠がどーんとありますね。これ、これ、このスタイルです。こちらは石製の灯籠ではありませんが、意味は全く同じ。この灯籠の灯りは、大仏さんに捧げられているわけですね。
こちらは秋篠寺の本堂です。こちらも正面に石灯籠が一基おかれています。
奈良に行きますと、このような「正面一基」のスタイルのお寺さんがほとんどです。もちろん関東や、ほかの土地でも古い歴史を持っている、もしくは灯籠の意味をよくご存じ、というお寺ではこのようなスタイルをとっておられますね。
いっぽう、よくみられる「両脇に分かれて」おかれているスタイルは、割と後代になってからのスタイルだそうです。こちらはどちらかというと、参拝している人々の手元や足元を照らす、という意味合いになり、こちらは人を主役にした配置、と言えましょうか。
「加飾」大盛り、見切りの「美」
…と、灯籠についてちょっと語りすぎてしまいました^^;。今回は、「イシブカツ」ですから、実際に拝見したものについてご報告していきましょう。
般若寺石灯籠の魅力は、「バランスの妙」だと思うのです。
いろいろ好みはおありと思いますが、私の場合、石もので「わあかっこいい」と思うものは、デザインがシンプルで品と存在感があり、広がり・奥行きを感じさせるもの…なのですが、この石灯籠を見ていると、「シンプル=品がよい」というのも安易な考えだわ、ということに気づかされます。
ちょっと寄ってみてみますと、実はこの石灯籠、ものすごいデコラティブ。
笠にしても火袋(灯りを入れるところ)、その下の中台にしても、とってもデコラティブですよ。笠の蕨手もくるりんと見事にまいてますし、火袋の四面には、牡丹、獅子、鳳凰、孔雀が浮彫されています。
普通、これだけ要素を入れこもうとすると、なんだか「やりすぎじゃない?」みたいな気持ちになってしまうんですけど、この灯籠を見るとそういう風に思いません。
つまり、『調和が取れてる』ってことなんですね。何か一つ突出して見えている、というのはつまりバランス悪い、ともいえるわけで。
しかし、この灯籠はざっくり全体を見るだけで、ああすっきりとして美しい灯籠だなあ、とまず思います。で、じっくり見てその飾りの多さに驚く…という感じ。なんだか作り手の「してやったり」笑顔が浮かぶような気がしますね。
本歌ならではの躍動感と力強さ
ちょっと火袋の浮彫を見てみましょう。後ろ足を跳ね上げてすごい勢いの獅子(右)。
孔雀(たぶん;左)と鳳凰(右)。
この神獣たちも、いい感じですよね。すごく生き生きしてますし、結構リアルな表現です。
「むとうさん、ここ、ここに注目!」
石造センパイは、孔雀の脚の部分を指さしました。
「この孔雀の脚、画面を飛び出して下の格狭間(こうざま)のところまで伸びてるでしょ。川勝さんは、『枠を飛び出してしまうこの勢いこそ、本歌のしるし。写しだとこうはできない』といったんだって。確かにオリジナルじゃないとこうはいかないよね」
なるほど!
確かに、ふつうは、はみ出しちゃうなんてありえないです。でも、あえてそこを逸脱することで、枠に収まりきらない躍動感が出てきている。生きている鳥のようです。
模造品を作ろうと思う側は、なかなかこういう逸脱したことってできないのかもしれない。
「般若寺にある写しだと、枠の中に収まってるんだよ」
なるほどな~~。深いなあ。
川勝先生は、モノを作る人の心もちやスケール感をよく理解されてたんですね。そういう美意識を持ちながら歴史的にこういったものを見ていく、というそういう学者さんだったわけですね。
それにしても、この石灯籠は素晴らしい。堂々としていて、でも繊細、…でも力強くて品がある。カンペキですね。
ふほおおお。
ため息をつく石造センパイと私。
こういういいものを見せていただくというのは本当に幸せです。まさに眼福。
すっかりと幸福感に満たされて、今回のイシブカツも無事終了したのでした。
(終わり)