葡萄薬師はもともとは葡萄を持ってなかった??
「葡萄薬師」突然の秘仏化に動揺しながらも、ヨレヨレしつつ、鎌倉時代の日光月光さんと、十二神将さんを拝観します。
こちらの日光月光さんは鎌倉時代の、関東界隈の香りを強く感じるお顔立ちですね。鎌倉にあります覚園寺さんの薬師三尊さんの両脇侍を、ふと思い浮かべてしまう感じ。全体的にキリッとした強い表情。口元はキュッと引き絞って少々厳しい。切れ長の目には玉眼が入っています。時代も結構近いんじゃないかな…
さて、そんなあてずっぽうばかりではあれですし、もうちょっと詳しく知りたいと思い、朱印をしていただく間に、こんな本を購入してみました。
なぜ、表紙が十二神将のクビラ大将なのか、ちょっと謎ですが、立派な本ですよ。
さて、ちょっと本を読み込みますと、大変意外なことが書かれていました!
現在、葡萄薬師と呼ばれるご本尊さんは、お寺のパンフレットなど見ますと、左手に葡萄の房を乗せ、右手は降魔印(触地印)で、膝の前に手を伏せ人差し指を下に伸ばして地面に触れるような感じになっています。
#お寺のHPをご覧いただくと、ご本尊の写真をみることができます→HP
しかし、この形になったのは昭和5年の修理の時だったというのです。それまでは、右手は上向きで、左手も上向きであり現在は失われていますが薬壺(やっこ)を乗せていたと考えられる、と書かれています。
「鎌倉時代初頭頃仏教図像集である『覚禅抄(かくぜんしょう)』には、様々な薬師如来の姿を説くが、中に左手に宝印、右手に葡萄を持つ薬師のあることを記す。」(P34から引用)
宝印、というのは宝珠のことでしょうか。宝印というと仏を象徴する文字や真言のことを指すので、立体物ではないような…。
最も一般的な薬師さんの持ち物は、薬壺なので、宝珠というのでも珍しいですけど、葡萄と宝珠の組み合わせに何か意味があるのかな??
「葡萄は千手観音の持物(じぶつ)の一つとするように、古くから仏教とかかわりのある果実である。本像には、往古は葡萄を持っていたという伝承があるが、或は、造立当時の右手には葡萄を持っていたかもしれない」(P34から引用)
なるほど、つまり現在葡萄を持っているのは、割と最近から乗せるようになったということなのかな?文化財指定になっている写真を見ますと、確かに左手には葡萄のってないです。が、パンフレットやHP のお像は葡萄をのせてます。
つまりこんなかんじ?
造立当時→左手に宝印、右手に葡萄
昭和5年以前→左手に薬壺、右手は??
昭和5年以降→左手に葡萄、右手は下向きにして降魔印に変更
印相(仏さんの手の形。いろんな意味があります)って、けっこう変えちゃうもんなんですね。
紆余曲折てんこ盛りのお寺の歴史とお寺の縁起
変えちゃう、というかそれもごもっとも、と思いますのが、この本に記されているお寺さんの歴史の複雑さです。
創建された時期についても、説がいくつかあるようなんですが、ものすごく端折ってしまいますと、非常に大きなお寺さんですので、塔頭がたくさんあったわけですね。その中で中心になる塔頭も、歴史とともに変遷してきてるんですけど、そのためにいろんな歴史がごちゃまぜになってわかりにくくなってしまってる、って感じですね。
また、有名なこのお寺の縁起、行基(ぎょうき)さんがこの辺りで行をしていたところ、夢の中に葡萄を持った薬師如来が現れて…、というお話は、どうもあくまでも伝承といえそうです。鎌倉時代に民衆の間に、行基信仰が流行したのですが、おそらくその時に由緒として組み込まれたって感じですね。で、江戸時代に定着した、と。
これだけ長い歴史のあるお寺さんですから、そりゃもういろいろありますよね。そりゃそうだ。
そんな長い歴史のなかでも、人々の必死の努力で守られてきた本堂や仏像が、いかに貴重か、ということですよね。
「行基さんが葡萄を持った薬師如来さんを夢で見て、その姿をお像に彫ってお寺を作り、薬園を作って民衆を救った。法薬である葡萄の栽培方法を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりと伝わる」
というこの縁起。何とも言えずいいお話ですよ。
土地の人に愛され大切に守られていく中で、このような縁起ができ伝えられてきたんだろうなあ。学術的にはそうじゃないかもしれなくても、やはりお寺の縁起はこのお話がふさわしいな、なんて思いました。
さて、大善寺はまた5年後にも来なくてならなくなってしまいましたが――何度でも足を運ぶ価値のあるお寺さんですからね。また来ますよ!――、今日は次のお寺へそろそろ向かわないと。あと3つのお寺さんを巡るつもりなので時間に余裕がありません。
そんなわけで。
大善寺の次には、塩山駅ちかくにある「向嶽寺」さんへと向かいます。
(続く)
大善寺
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