2017年は「慶派イヤー」!⑤『快慶』展はまるで「金色の坩堝」

「金色の坩堝」のような空間
さて、『快慶』展はもう4日に終わってしまったのですけれども(汗)、『快慶』展と、拝見してとても印象深かったお像について、ちょっとレポートしておきたいと思います。

会場の印象を一言で言うと、「金色(こんじき)の坩堝(るつぼ)」。
もちろん金色の仏像だけではないのですけど、印象として何だかもう、「金色」なのです。
「金色」は仏の肌の色。仏像の肌を金色にするのは、経典にある通りのことで、とても正しいわけですね。

日本人の好みからしますと、全身がキンキラキンだと、なんだかちょっとあれですよね。成金のような、古くても新品に見えてしまうような、そんな感じがして、ついつい木肌の渋みを見てホッとしてしまいます。

しかし、例えばテラワーダ仏教の地、東南アジアに行きますと、むしろキンキラキンが正しい。タイの信徒は喜捨して金箔を買い求め、お像にペタペタ貼ってお祈りをします。そして、ミャンマーなんかですと、由緒ある仏像の光背が電飾でギラギラだったりします。光背は光り輝くものですから、金色をさらに一歩進めて、電気の表現を導入してしまっているわけです。信仰としては、な、なるほど…と思います。でも、日本人の自分からすると夜の町の電飾のように見えてしまうのですけど……。

閑話休題。

ちょっと話がずれてしまいましたが、『快慶』展の「金色」は、そのような金色とはちょっと違った印象でした。日本風の金色といったらいいんでしょうか。日本人にとって心落ち着く金色、という感じ。快慶が彫り出す仏像の、優しく落着いた様子が、全体に静かな重みを創出しているのかもしれません。

このチラシの表現、そのままの印象でした。
それにしてもこのチラシのデザインは何度見てもすてきですね!

考えれば考えるほど、鼻血モノの出展仏像の数々

それにしても、すごいラインナップでした。今図録を見返してみても、「このお像の公開ひとつで、ものすごい人が集まるわ!」というお像が、これでもかと大集結しています。こんなことはもうあと20年はないんじゃないでしょうか。できれば、もう一度見ておきたかった…。

その中でも、独断と偏見で、個人的に印象深かったお像をピックアップしてみますと…

■醍醐寺(京都)
弥勒菩薩座像……三宝院本尊。今回初めて拝観。いやもう、本当に傑作でした!運慶の力強さに対して、快慶は優しい印象がありますが、快慶にももちろん「力強い」表現がある。それはこういうふうになるんですよね、と何度もうなずきました。

不動明王像……初見。こちら、実は今回最も印象が強かったかもしれません。こんなに力強く美しい不動明王はないんじゃないかってくらい!

■金剛峯寺(和歌山)
孔雀明王坐像深砂大将像
……恥ずかしながら、金剛峯寺に行ったことがないのです。なので、こちらのお像もすべて初見。素晴らしかった!特に深砂大将像にぐっときました。

■清水寺(京都)
千手観音菩薩坐像
……奥院本尊の秘仏!!新潟の出開帳、わざわざ観に行きましたよ~~!(涙)まさか再びお会いできるとは。

■耕三寺(広島)、造像当時は伊豆山神社(静岡)
阿弥陀如来坐像
……あんまりにも優しい雰囲気に、思わずうっとりしてしまいました。髻を高く結い上げたいわゆる宝冠阿弥陀像。天台宗ならではの像容ですね。

■遣迎院(京都)
阿弥陀如来立像
……チラシにも掲載されているお像。これぞ、快慶!ですよね!?ひっそりと穏やかなのに、ものすごい存在感。完璧に整ってるのに、なぜか近しい。
像内からは、12000名もの人たちが勧進をし、結縁したことが分かる結縁交名が発見されたとのこと。

掲載写真なしで、わかりづらくてすみません!
勝手ながら、一般的にお像の写真を公開されているお寺さんのリンク先を付させていただきました。小さな写真だったりしてわかりにくいかもしれませんが、なんとなくはお分かりいただけると思います。

また余計なことを申し上げますが、写真と実際のお像はかなり印象が違いますので、ぜひ、本物に会いに行かれることをお勧めします!

* * * * * * * *

それにしましても、秋の『運慶』展が楽しみでなりません。今回の『快慶』展で感じたことを、より鮮明に感じられるのではないか、と思っています。快慶が目指したもの、運慶が目指したもの。それらを体感できる絶好の機会です。

それから、『快慶』展で得た教訓としましては、『運慶』展は一度ではなく何度か足を運ぼう、ということですね。私も少なくとも二回は観に行きたいと思います。

そしてさらに。

『運慶』展をより楽しむために、清泉女子大学の山本勉先生の一日講座が開催されます。そちらで予習をしていくと万全ですね!
7月の開催ですが、まだ予約間に合うかもしれません。ぜひチェックしてみてくださいね!

「運慶と快慶 東京・奈良の国立博物館特別展にちなんで
特別展 運慶を鑑賞するために」山本勉先生
日時:2017年7月8日(土) 13:30~15:40(要予約)
http://www.seisen-u.ac.jp/rafaela/lecture/oneday.php

2017年は「慶派イヤー」!④快慶が表現したかったものとは

「アン阿弥陀仏」は「阿弥陀仏阿弥陀仏」?
前回、「アン阿弥陀仏」の「アン」という梵字の意味が「辺際」とある、ということを書きましたが、醍醐寺出身の重源さんだし、と思い、もうちょっといろいろ手元にある本をチラ見しておりましたら…
こちらの本に…

あった!!
胎蔵界五仏の「無量寿如来」の種子が「アン」なんですね~~~!!!
無量寿如来とは、阿弥陀如来のことです。仏教語辞典によりますと、無量寿とは「永遠の生命の仏としての阿弥陀仏をさしていう」とあります。

ってことは、「アン阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏阿弥陀仏」という意味ともとれますね。なんと…
今度N先生に、この言葉の意味について伺ってみたいと思います。

快慶と信仰のこころ
このように、号にもよく表れていると思いますが、快慶という人は阿弥陀信仰の強烈な信仰者だった、そこのところを土台にみてみると、とても理解しやすくなる気がします。

快慶の表現は、ひたすら阿弥陀仏、ひいては仏の世界を顕現化させることにあります。もちろんそれは仏師誰もが目指す理想の形なんだと思いますが、こころの面でもテクニカルの面でも、そのバランスが天才的に突出しているのかなと思います。

『快慶』展の図録に、「快慶と絵様――御仏の相好を写す」(谷口耕生先生の論文)が掲載されているのですが、拝読して、なるほど!と納得しました。

快慶の表現は、平明で端正、親しみやすいものですが、運慶と比べると、形式的で平面的に思われることがあります。しかしそれは、快慶が目指す方向性にその理由があったのかもしれません。

詳しくはぜひ先生の論考をご覧いただきたいのですが、乱暴に要約してしまうと、快慶の造像したものの多くに今風に言えば「原画」(お手本)があった、ということなのです。
重源とのつながりや何かから、快慶はものすごく貴重な画像を見ることができたようなのです。快慶は、できるだけその画像を、忠実に表そうとした、と。

「快慶のように典拠となった画像を特定できる造像例がこれほど多い仏師は珍しい」(図録p215より引用)

他の仏師も、もちろんお手本はあるわけですが、快慶のように原画がはっきりわかるような仏師は少ないとのことなんですね。
やはり、材質の問題や時代の流行や施主の要望やら何やら、様々な要素があるでしょうから、図像そのままに作るということは難しいのかもしれません。仏師の個性もあるでしょうし…

よく考えましたら、仏の姿とは、いったいどうやってわかるんでしょう。実際に見たことがあるわけではないですよね。

仏の姿がどんなふうであるかはお経(経典)などに記されているのですが、もうひとつ、先人がさらにその先人が写した仏の姿をさらに模写して、大切に保存する、そうして場所を越え、時を越えて伝達されていく。そんな図像も伝承されていました。

快慶は、仏の姿をできるだけ雑音を入れずに表現し、この現世に顕現させたかったのかな、なんて思います。
ですから、最も筋の良い(と言っては言い方が悪いですが^^;)、空海が持って帰ってきた画像なら、それをそのまま立体化する。元の図像を正確に、しかし図像をより美しく、尊く、超越した存在として、精いっぱい荘厳(しょうごん)する。その表現に、全力で注力したのではないでしょうか。

(続く)

2017年は「慶派イヤー!」③東大寺大勧進・重源と「アン阿弥陀仏」

希代のカリスマ・俊乗房重源さん
快慶さんを語るときに、絶対にはずせない重要人物に「俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)」さんという傑僧がいます。快慶さんを語るときに…だけではないですね。運慶さんもそうですし、石造美術系でいえば宋人石工・伊行末(いぎょうまつ)もそう、宋人鋳物師・陳和卿(ちんなけい)もそう。
鎌倉時代初頭は各分野において、その後の日本文化の礎となるエポックメイキング的なすごい作品がつくられましたが、そのほとんどが重源さんの仕事、「東大寺再興」に関わるもの(関わった人々によるもの)といえるでしょう。

源平の戦いの中、東大寺は平家に急襲され、焼け落ちてしまいました。その翌年、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の推挙により、重源は東大寺再興の責任者になります。この時すでに61歳だったそうですから、当時としては十分に高齢者でしょう。しかし、重源さんはそこから、苦節22年。83歳にして見事に東大寺大仏殿を再興しました。

とにかく、詳細は端折りますが、スーパーすごいお坊さまです。(重源さんについては、こちらもご参照ください!

ものすごいカリスマであった重源さんは「南無阿弥陀仏」と号した阿弥陀信仰者でした。そんな彼に帰依した同行衆に、重源さんは「阿弥陀仏」号を与えました。

「アン阿弥陀仏」という名乗り
快慶にも「アン阿弥陀仏」という号を与えたのですが、それからしても、快慶は単に仏師としてではなく、東大寺再興を目指す勧進集団に加わった同行衆の一人だったということが分かります。

快慶は、仏像の内部などに銘を記しているのですが、

1192年以降は、「巧匠 アン阿弥陀仏」と記銘しているそうです。
上の写真は、「快慶」展の図録の裏側ですが、「アン」のところは、梵字なんですね。この梵字を一字で「アン」と読みます。

ちなみにこの梵字、どんな意味があるんだろ、と思いまして、『梵字必携』児玉義隆著(朱鷺書房)を開いてみますと…

おおおお、これですね!?
そして…

んんん?
漢字音訳が「闇」!?
字義が「辺際」!?

音訳は、音をうつしているはずですので、あえて「闇」という言葉の意味はスルーしますが、「辺際」を『仏教語大辞典』(小学館)で調べてみますと。「はて。きわ。時間・空間・程度など、これ以上ないという限界」という意味だ、とありました。

快慶のスタイルの阿弥陀仏を「安阿弥様(あんなみよう)」というように、漢字で書くときには「安」という字をあてるのを見てきました。なので、「アン」という梵字そのものの意味を見てみると、びっくりするくらい印象が違って驚いちゃいました。

重源さんが梵字の「アン」を冠した「アン阿弥陀仏」という号を快慶さんに与えたということ、それは快慶さんという人の人となりを示しているようにも思えますし、重源さんが快慶さんに期待した役割を意味してるんじゃないか、とそう思わずにはいられません。

(続く)