【2015会津旅】②徳一さんはなぜ奈良から会津にやってきたのか

恵日寺さんにまずはご挨拶
お寺の方が、たまたまひょいと登場されまして、思いがけず中に入ってお参りできることになりました!
ご本尊のある内陣の前で参拝すると、「もしご興味がありましたら」と横奥のほうにある発掘された遺物が保管されているお部屋をちょっとのぞかせていただいちゃいました。うふふ。

写真は撮ってはいけないということでしたので、残念ながらありませんが、江戸時代中期の建造物と言う本堂は、とても立派な、個性的なものでしたよ。

私が何より感心してしまいましたのは、木材の立派なこと。樹齢何年だろう、というぐらい太い木からでないと取れなさそうな美しく大きな板戸。そこに、これまた美しい画がふんだんに描かれています。贅沢!

ご本尊は、徳一さんが創建した時は、もちろん「薬師三尊」像だったようですが、現在は当時のお像はもうありません。でも、今の恵日寺さんでもかわいらしいご本尊が三尊大切に祀られていました。実は、お話に夢中で、ご本尊にお参りしたものの、しっかりとじっくりと拝見してないんですよね。たぶん千手観音菩薩像がご本尊だったような気がしてるんですが、でも脇侍が二尊、菩薩像だったような気がするので、私の勘違いかもしれません。

お寺の方のお話では、室町くらいまでさかのぼるかもしれないという研究者もいます、とおっしゃっておられました。なるほど、確かに…。
#個人的には、(近くで見たわけではないので、あてずっぽうですが)江戸時代初期、元禄くらいまでさかのぼるかもしれないなあ、と思いました。

そして、いろいろ見るべきものをお教えいただき、いざ出発!
『史跡 慧日寺』へと向かいますよ~!

復元・慧日寺はやっぱり派手だった
恵日寺さんから歩いて3分ほど。復元された中門と金堂へと…
20151028-1入口で入場料を払いますと、資料館も一緒で500円。リーズナブルです。
20151028-2こちらが中門の復元。そして…

20151028-3

こちらが金堂!今風に言えば本堂ですね。
金堂の前に敷き詰められている敷石も、当時の遺構からの復元だそうですよ。

20151028-3

金堂の内部です。

それにしても壁や柱が朱色ママですと、派手に見えますよね~。今となるとシブイ各地の名刹も、建立当時はこんな感じだったわけですね。これぞまさに異空間ってやつですよ。「この世のものではない空間」っていうか。

やっぱね、こういうの見ますと、当時の「仏教」の位置づけが何となく感じられてくるような気がします。

「最先端の舶来文化」。

そのセンターが仏教寺院だったんだなあ、と改めて思うのです。

徳一さんは、「超エリート+最先端知識人」
ところで、今回連呼し続けております、「徳一さん」についてなんですけどもね。
一言で言うと、「最高の教育を受けた超エリートで最先端知識人」なお方なのです。

現代では、「お坊さま」とききますと、あくまでも宗教人としてのイメージがわいてくると思うのですが、徳一さんが生きた時代では、ちょっと意味合いが違うんですね。いえ、違うというか、なんというか。

今風に言うと、超エリート国立大学みたいな、全国の頭のいい人たちが集まってくる場所、というのが当時の奈良のお寺さん。もちろん目的は信仰かもしれませんけども、とにかく当時の最先端の考え方であった仏教の経典を学び、研究し、修行・実践する場所がお寺さんだった、と言っていいと思います。

徳一さんは、その中心的寺院である興福寺の「修円(しゅえん)」という人について学び、東大寺に住していたと伝わります。
この修円さんというお方がまた、当時最高の知識人の一人として世間からも評価の高いお方だったのです。そのお弟子ですからね、ほんとど真ん中ですよね。

徳一さんは、藤原氏関係者?

……あれれ??

しかし、『国史大辞典』の「徳一」項目によると、「師は修円と伝えられるが疑問がある」とありますよ。

徳一さんは生没年がはっきりしていないのですが、国史大辞典などによりますと、760年頃から840年頃としてます。
たいして、修円さんは、771年に生まれて834年入滅、とあります。すると、師匠である修円さんのほうが11歳年下ということになっちゃいますよね。それはちょっと不自然だなあ。しかも、徳一さんは20歳ごろに「東国へ行った」と伝えるものが多いので、余計におかしなことになっちゃいますね。

ちなみに、空海さんは、774年生まれで修円さんより三つ若くて、最澄さんは767年生まれなので、修円さんより4つ年上。それにしても、この年代、アツいなあ。日本仏教の偉人が何人も、同時に生きてるんですね。

話がちょとずれました。
徳一さんに戻しますと、師匠はひょっとしたら違うかもしれませんが、奈良のお寺で最高峰の仏教を学んだのは間違いないと言えます。さらに、当時、ヤマト朝廷が東北の〔前哨地〕として、重要視していた筑波(茨城)と会津に、彼は布教をするために行くわけです。

一説に、徳一は恵美押勝(えみのおしかつ)こと藤原仲麻呂(聖武天皇のいとこ)の息子ともいわれ、恵美押勝の乱で失脚、斬死した父の余波で東国に流された、とするものもあるんですけど、それはどうなんだろう、とちょっと疑問を覚えます。
本当に息子であったかは、確かめようがありませんけど、やっぱりここでもいえることは、こういう伝説がある以上藤原家に縁の深い人だったんじゃないかと思うんですよね。

それに、勉強していた「興福寺」は、藤原氏の氏寺です。
さらに、徳一さんは、会津の前に筑波に入り、中禅寺というお寺を建立するんですが、このつくばのある地域(常陸国(ひたちのくに)・現在の茨城県)と言うのは、鹿島神宮や香取神宮もあって藤原氏にとって先祖代々関係の深い土地ですものね。また同時に、ヤマト朝廷が東国・東北経営のために重要視していたルート、そのものとも言えます。

徳一さんが開祖となったお寺は何と70箇所を越えるとされるんですが、そのように大きなお寺を次々と立てることができたのも、 大きな支援者がいたからなんじゃないか、と考えてしまうんです。こういった当時の状況をどうしてもつなげて考えちゃいますよね。

(続く)

【2015会津旅】①平安時代のカリスマ・徳一さんを訪ねる旅へ

「なぜそこにその仏像が?」を考える
仏像を拝観する時、ただ溜息をついて、うっとりする時間をたっぷりとった後、「なぜその仏像が、その場所にあるのか」ということをいつも考えます。

「仏像」とは、造像された時代の「文化力の精華」であり、一つの結果だと考えるからなんですが…。と申しますのも、仏像(と安置する寺院建造物)を造るというのは、今も昔もお金がかかることです。つまり、パトロンが必要です。発起者が、お金をそれぞれ出し合った民衆であることもあるかもしれませんが、多くは、その地域の権力者または、その土地に関わった権力者がパトロネージしたものなわけですね。

奈良や京都のような都があった場所や、鎌倉のように幕府があった場所は、ハイクオリティな仏像がある理由はすぐにわかります。当時の最高権力者がいる土地ですからね、パトロンはそういった権力者、もしくは周辺に集積した富ということになるでしょう。時代によってデザイン的アップダウンはあるにしろ、です。

でも、地方でぎょっとするようなハイクオリティな仏像と出会うということがあり、そうなると余計に「なぜここにこんなにすごい仏像が?」と考えてしまうんですね。

「この仏像がある、ということは、ここにはその時代、大きな経済圏があったんだな」
そう連想するわけですね。

「仏都・会津」の祖、徳一さん
ちなみに、会津もそんな場所です。東日本の中でも突出して古い仏像(平安時代初期)が多い地域で、そのハイクオリティっぷりには本当に驚かされます。
#ちなみに東北で初めて「国宝」(彫刻部門)に指定されたのは、勝常寺(会津湯川町)の薬師三尊像です。

そして、俄然クローズアップしてくるのが「徳一(とくいつ)」さんという、お坊さまです。
福島県を代表するお寺さんの多くはこの「徳一」さんが開祖と言ってもいいくらい、福島仏教界を代表する傑僧です。
平安時代初期を生きた人で、日本仏教界の巨人・空海さんや最澄さんと激しく論争したことでも当時から高名でした。日本仏教史上に燦然と輝く偉人の一人です。

かねてから、徳一さんに憧れを抱いてきた私としては、やはり、徳一さんが最初に開山したとされ、お墓もある「慧日寺」を一度ぜひ訪ねてみたい、と思っていたのでした。

しかし残念ながら、「慧日寺」は、もうありません。
でも今は、復元された「史跡 慧日寺跡」があります。まずはそこを観に行きますよ~!

20151026-1磐梯町駅を降りて、歩いて20分ほどすると、…みえてきました!
道の先に、赤い建物がありますよ。あれだ!

…と。
その手前に「恵日寺」という矢印があります。
あれれ??
20151026-2

「慧」日寺、ではないけど「恵」日寺。
よくわかりませんが、きっとこの恵日寺は現役のお寺さんです。まずこちらでお参りしてから史跡のほうに行こう、と決めました。

何事もご挨拶が大切ですからね!
20151026-3立派なご本堂ですね~!
その前に、看板があります。ナニナニ…

なるほど……。

ざっくりまとめますと、徳一さんが開創したお寺・慧日寺は、戦乱などにより何度も燃えたりしつつ、幕末までお寺があったのですが、神仏分離令による廃仏毀釈により、廃寺。
しかし、その後、塔頭の一つであった観音堂のご住職が旧寺名を復興、「磐梯山恵日寺」と名乗って、現在に至る…、ということだそうです。

20151026-5

いやあ、それにしても、こちらの本堂変わった造りですね!
玄関の上にある部分、いわゆる〔唐破風〕かな?と思いますけど、こういう形のもの始めてみましたよ。新鮮!

手前でご挨拶だけして失礼しようと思ったら、お寺の方が現れて、中へどうぞと言ってくださいました。やあ、こういう運だけは持ってるのが、私ですよ~!

(続く)

【関西旅2015】③なぜご本尊が「十一面観音」、「水」が重要、そして若狭(小浜)から送られてくるのか。構成要素で妄想してみると…

なぜ『お水取り』が重要とされるのか

素人の私がいくら頭をひねっても、その真相などわかる訳もありませんが、しかし私なりに妄想してみたいと思います。

まず、

1.この行を始めたのが「実忠」さんである、ということ。

2.二月堂のご本尊が十一面観音であるということ。

3.実忠さんがこの行事を始めようと思ったきっかけのお話し【笠置山の穴(龍穴)に入ると、そこは兜率天。天人たちが十一面観音悔過を行っているのをみて、人間界でもこの行を行いたい、と切望し、……】にあるように、どこかほかで行われていた優れた行事を実忠さんがもたらした、ということ。

4.重要なのが「水」であるということ。そしてその水は若狭から送られる、ということ。

このあたりにあるキーワードを拾って、ちょっと妄想してみましょうか。


実忠さんはインド人? 国際色豊かだった古代日本

まず1.の「実忠」さんという人、なんですが。

私は何度も若狭小浜を訪ねてますので、ごくごく普通にこの実忠さんという人が、インド人であった、と思っておりました。小浜市のガイドブックや、神宮寺関係のパンフレットにはそのように書かれていますし、そもそも東大寺の開山である良弁(ろうべん)さんも小浜市出身だ、とされています。

しかし、国史大辞典や東大寺のサイトなど確認しますと、そのようなことは一切書かれていません。
国史大辞典によりますと、良弁僧正は近江国か相模国の人だ、と言い、実忠さんは出自がわからない、としています。

ほかの辞書でも、ほとんど同じ。おそらくこの説が通説なんでしょう。
ですので、小浜に残る「良弁さんの出身は小浜」「実忠さんはインド人」というのは、伝説、ということになります。

しかし、単に伝説と言って片付けてしまうのもちょっともったいないようなお話しです。

意外と知られていないかもしれませんが、この時代、外国の人がたくさん来日していました。有名なのは、東大寺の開眼供養を行った菩提僊那(ぼだいせんな)僧正でしょうか。彼はバラモン階級出身のインド人仏僧で、請われて来日し、大安寺に入り、日本仏教の興隆に尽くしてくれました。菩提僊那と一緒に、渡日してきた僧、仏哲はベトナム出身、道せんは唐の出身です。想像以上に国際色豊かだったのが当時の日本なんです。

そうした背景を考えますと、実忠さんが、インド人でも不自然ではありません。
また一説にはペルシャ人(イラン)だったともいわれるそうですが、それも不自然ではありません。当時ペルシャ人が来日し、聖武天皇に拝謁している記録も残っているからです(『続日本紀』)。

ちなみにペルシャ人は当時、「波斯(はし)人」と呼ばれていました。このこともちょっと記憶しておいてください。

十一面観音さんと言えば「水」という連想

そして次に「ご本尊が十一面観音である」、ということです。

仏像好きな人であればピンと来ると思います。頭の中にこんな連想が浮かぶ人は多いんじゃないでしょうか。

【十一面観音さんがご本尊→水→北陸・泰澄(たいちょう)・白山(はくさん)信仰】

よく知られた話ですが、十一面観音さんは「水」とたいへん深いかかわりがあります。もともとインドで天候や雨を支配した神がベースになっている、ということもあるのでしょうか、十一面観音さんがおられるところの近くには、たいてい重要な水源、川、湖などがあります。

また十一面さんといえば、泰澄の白山信仰でしょう。

白山は、富山にある霊峰ですが、この山を開いたのが泰澄さん。夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより白山へ登拝しますが、頂上で、白山神の本地仏(ほんじぶつ)、十一面観音が出現します。

こうして、「白山信仰」は泰澄とその弟子によって全国に広く伝わっていくのですが、この泰澄さん、東大寺関係者とも強い関係があります。

まず、聖武天皇。
聖武天皇の前の天皇で聖武天皇の叔母にあたる元正天皇という女帝がいたのですが、この方の病を泰澄さんが祈祷で平癒させたため、女帝の篤い信頼と帰依を受けます。

そして行基。
東大寺創設の功労者である行基さんは、泰澄さんを訪ね、ともに白山に登り語り合います。哲学者・梅原猛さんは、この時、行基さんは泰澄さんより「本地垂迹」の考え方を学び、また仏を木に彫ることを学んだのではないか、と推察しておられます。

そして「お水送り」の舞台である小浜。
小浜には、大変有名な美しい十一面観音さんが居られます。羽賀寺というところのご本尊ですが、こちらは元正帝のお姿を映したもの、と言われています。そしてこのお寺は元正帝の勅願により、行基さんが創設した、と伝わっているのです。

20150322-1

(こちらが羽賀寺の十一面観音さん。何となく日本人離れしてこってりした顔立ちの美人ですよね?)

羽賀寺のある場所は、お水を送る舞台になる神宮寺と鵜瀬からは結構離れてますが、この小浜という地域全体が何となく、聖武天皇ファミリーと近しい間柄にあるような感じをうけます。

つまり、ご本尊が十一面観音さんである、ということは、「水」と縁が深い、とまず連想されますし、その水が聖武帝ファミリーとも何かと縁のある小浜から送られてくる、ということは何となくあり得る話、という感じがしてくるわけです。 必然性と申しますか…

(続く)