京都、奈良、高野山へ――空海さんと密教を巡る旅!②乙訓寺

長岡京・乙訓寺(おとくにでら)

洛北の高雄山寺こと神護寺を含む「三尾」を尋ねた翌日、小雨の中を電車とバスを乗り継ぎ、乙訓寺へと向かいました。

JR京都駅から約10分ほどの長岡京駅で下車、バスでさらに15分ほど。「光明寺行」のバス、というのがゆかしいですね。
光明寺と言えば、浄土宗の開祖・法然上人さん縁のお寺。こちらもぜひ拝観したいところですが、なにしろ雨で足元も良くないので、今回はあきらめました。

バス停から、住宅街を10分ほど歩くと現れたのがこちら。

……あれ?

想像していたのより、だいぶコンパクトな…。
いえ、すみません、失礼な物言いになってしまいましたが、乙訓寺と言えば、例の早良(さわら)親王が幽閉されたお寺です。

早良親王は、桓武天皇の同母弟であり、皇太弟でしたが、無実の罪を着せられ、廃太子となり、非業の死を遂げられた方。
じつは、この早良親王という悲劇の人物が、後の京都(平安京)をつくりだしたと言っても過言ではないのです。憤死された後、桓武天皇の身の回りの大切な人が次々に亡くなり、親王の怨霊の祟りだと考えられました。
その祟りから逃れるために、長岡京を遷都し、平安京に遷ったとされています。まさに「御霊(ごりょう)」--日本史上特筆すべき怨霊のおひとりと言っていいでしょう。
当時の皇太子という高貴な容疑者を幽閉する場所として選ばれたのが、この乙訓寺なので、勝手に想像を膨らませてかなり大規模なお寺を想像してしまっていたのでした。

もう少しすると、ボタンが咲き乱れて多くの人が訪れるそうですが、この日は寒いし雨は降っているしで、ほとんど参拝客はいません。

左手に見える鳥居は八幡神のお社。右手奥が本堂になります。
じつは、この「八幡神」というのが、こちらのお寺のキモと言っていい存在なのです。

桓武天皇にまつわる怨霊と、鎮護国家の道場

ちなみに、空海さんは、神護寺の後、嵯峨天皇の勅命によりこの乙訓寺の別当になりました(811年)。「高雄山寺(神護寺)では不便なので」という理由だったらしいんですけど、それならもっと御所に近い場所のお寺でも良かったのでは?と素朴に思います。長岡京の故地にあるお寺なんて、ちょっと遠すぎませんか。
嵯峨天皇は、空海を別当に命じこの地を「鎮護国家の道場とした」そうなんですが、それはやはり、親王の怨霊鎮めと無関係ではなさそうです。
嵯峨天皇は、早良親王の甥にあたるのです。親王が憤死されたのは785年。嵯峨天皇は786年生まれですから、生前の交流はありえませんが、実母である藤原乙牟漏(おとむろ)皇后は、親王の祟りによって亡くなった(790年)と考えられていましたから、思いは切実だったことでしょう。

事件の時、空海さんは12歳でした。まだ故郷の讃岐国に居ましたが、この大事件を知らないはずがないのです。なぜなら、空海さんの母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)は、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(学問の師として使える役職)だったんですから、とても近い感覚でこの大事件について聞いていたはずです。
ちなみにこの伊予親王も悲劇の人。807年に無実の罪を着せられ自害して、のちに怨霊になっています。パターンは早良親王とほぼ一緒です。

いやもう、実に。

桓武天皇の周りは、怨霊だらけです。
そもそも、桓武天皇が皇位に就く際にも、異母弟で皇太子だった他部(おさべ)親王と、母・井上内親王も、これまたほぼ同じパターンで廃皇后・廃太子、憤死→怨霊化しています。

弘法大師が住まったお寺のご本尊は「合体大師」

こちらのご本尊は、その名も「合体大師」とおっしゃいます。
私はそのことを本田不二雄さんのご本『弘法大師 空海読本』(原書房)で初めて知りました。

「合体大師」??

なんですか、それは!?

改めてお寺のHPを拝見しますと…

ーー空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。(公式HPより引用)

むむむむ。

つまり、お顔は八幡大菩薩。肩から下は、弘法大師のお姿だと、そういうことですね?

しかも、八幡神の姿をつくろうとしているところに、本人が登場して「半分つくるよ」と言って、顔から下を彫り手であったはずの空海さんにしちゃった、ということですよ。なんと秘密めいて、暗示的なお話なんでしょうか。
(ご朱印も、もちろん「合体大師」です)

ちなみに、お像は秘仏ですが、今のご住職は一度だけ、阪神淡路大震災で被害を受けた本堂の修復のためにお像をご覧になったんだと、ご朱印を書いてくださった奥さまからうかがいました。
「お嫁に来てからは一度もあけていないから、私は拝観したことがないんですよ」
と奥さまがにっこり。今後は33年に一度のご開帳と決められたそうなので、生きてる間に一度拝観できそうでよかった、なんてお話ししました。気さくな優しい奥さまでした。

空海さんと八幡神の深いつながり

先にご紹介したご著書の中でも、本田さんは空海さんと八幡神の不思議なほど濃い関係について、考察されています。詳しくはぜひ本書をご覧いただきたいのですが、じっさい、あまりよくわかっていない私ではありますが、そもそも神護寺が「和気(わけ)氏」の氏寺であった時点で、「おや?」と思うわけです。

和気氏といえば、これまた古代史上大事件「道鏡事件」で大きな功績のあった、和気広虫(わけのひろむし)と和気清麻呂(きよまろ)姉弟のあの和気氏です。

道鏡事件をざっくりまとめれば、女帝・称徳天皇が、寵愛していた僧侶・弓削道鏡を天皇にしたいと考えたものの、宇佐神宮のご神託により、天皇にするのをあきらめた、という事件です。

この時、宇佐神宮に使いをして「道鏡を天皇にしてはいけません」というメッセージを持ち帰ったのが、和気清麻呂でした。

宇佐神宮というのは、八幡神のお社のことです。つまり、このご神託は八幡神が発したものでした。

ここでも、素朴な疑問が湧いてきませんか。

「誰を天皇にするかという大問題を、八幡神の意見で決めちゃうの?……なんで??」と。

もちろんこの疑問に関しては、学者の先生方がありとあらゆる仮説を唱えておられます。これまたざっくりとまとめてしまえば、天皇位を含め、権力をめぐる抗争が激しく行われている中、八幡神をトーテムとするグループのようなものがあり、何かこう、大きな力を持っていた一つのポイントだった、ということなんでしょう。
(八幡神は一般的に皇祖神とされますが、成り立ちからしてもともとは宇佐を中心とした地域を代表する尊格だろうと私は思っています)

ちなみに、和気氏は岡山のあたりの豪族で、別に八幡神をトーテムにする氏族ではありません。しかし、このご神託事件あたりから、どうも強い関係性を持つに至ったのではないか、と想像します。

そして、空海さんと八幡神とのつながりも、この和気氏とのつながりがから始まったんじゃないかな~、とこれまた勝手に想像してみたりして。
(上の写真は、神護寺にある和気清麻呂廟)

これまた何の根拠もない想像なのですが、私はこの清麻呂公と空海さんは、会ったことがあったんじゃないかと思うんです。

空海さんは、18歳の時(791年)に京の大学に入学しますが、その超エリートな道をあっさり捨てて、逐電(?)してしまいます。

この時、清麻呂さんは58歳。
清麻呂さんがなくなったのは、799年ですから、この頃は充分にお元気そうな年代です。

空海さんは大学をやめてから、入唐するまで10年余り、いくつか歴史的にわかっている事績はあるものの、はっきりとこういうことをしていたということが、わかっていません。各地の山野を巡り修行していた、東大寺や大安寺などの大寺にもなぜかしっかり出入りをして、経典を読み漁っていた……のかな?という感じ。

そんな時に、才気あふれる政治家・清麻呂翁に会ったりしてなかったかな??
いや、会っててもまったくおかしくないぞ!?

そんなご縁もあったから、唐から帰国し、京に入った時に、高雄山寺(神護寺)に入ったんじゃないのかな、と。

神護寺を出た後、住まったこの乙訓寺でも、和気氏との強い絆は続いていたのではないでしょうか。ご本尊の「合体大師」は、その象徴のような気がしてならないりません。

(むとう)

京都、奈良、高野山へ――空海さんと密教を巡る旅!①神護寺

空海さんの足跡をたどる旅へ

先週、約一週間かけて関西地方を行脚してきました。
今回のテーマは「特に空海さん(弘法大師)の『密教』を巡る」。

少々回りくどい話になりますが、人生を振り返りますと、
「日本文化の根っこに触りたい」というのが、どうやら私自身の変わらぬテーマなのですが、その日本文化の大きな根っこのひとつに「密教」があります。
私は、その大きな根源である『密教』を、仏像を通していつも遠くから(物陰に隠れるように)見てきました。

仏像を拝観するのに必要な、ごく初歩的な情報だけは一応知っていますが、あまりそれ以上突っ込まないようにしていた、というのが本当のところです。
そのあまりに深遠な世界ゆえに、腰が引けまくってました。及び腰になっていたのです。

しかし、仕事で密教に関わることをするかもしれなくなって、そうも言っていられなくなりました。

そこで思い立ったのは、まずは初歩の初歩。
密教を日本に持ってこられた弘法大師・空海上人の足跡をたどることでした。
時間の都合上、唐から帰国して京都に入ってから以降の代表的な関係深いお寺さんだけしかいけませんけど、まず現場に立ってみるというのが、やっぱり大事。そう考えました。

京都・神護寺からスタート

そんなわけで、スタートは京都の北西部にある神護寺さん。
神護寺さんは、和気氏の氏寺として成立しましたが、空海さんが唐から帰ってきたもののしばらく洛中に入らず、住まいしたお寺です。

こちらには、仏像ファンにとっても垂涎のお像がたくさんいらっしゃいますから、これまでも何度ともなく訪れています。

でも、今回は心の設定を「仏像拝観」から「空海さんの密教」に変更して、改めての拝観。面白いもので、そうなってくると見えてくる風景も何だか新鮮。目が行く場所もだいぶ違ってくるものです。

正直言って、この神護寺さんを拝観するだけでも、自分なりの小さな発見や気づきがたくさんありました。これこそまさに、現場にいってこそ感じる気づき。

実は、先週は本当にお天気が悪くて、神護寺に行く途中も曇天・時々雨。気温も低くて残念な感じだったんですが…

なんと、金堂(本堂)の前に進んだら、いきなり晴れました!!

能天気で楽天家の私は、「これはきっと歓迎してもらえてるってことだ!」といきなり気分アップ↑。

何しろ、この金堂の中には(そもそも)大好きな薬師如来像がいらっしゃるし、ね。好きな相手に受け入れたもらえたような、そんな気持ちになってたちまち幸せになり、「この旅は来てよかったってことなんだ!」とほくほく。

これは、企画成功もお祈りして、カワラケ投げるべし!ということで、お馴染みカワラケ投げ。目いっぱい厄除けします!

境内のいちばん奥の地蔵院まえから、錦雲峡と呼ばれる峡谷にこのカワラケを投げますよ。私は、なかなか上手に遠くまで飛ばせたので、茶屋の女将さんに褒めてもらえました。ほくほく。

そのあと、やっぱりせっかく来たからには…と、西明寺、高山寺と巡って、ホテルに戻りましたが、 やっぱり行ってみてよかった。

というのも、この風景。

金堂の後方の山上に、神護寺中興の祖でもある文覚上人のお墓があり、そこから見えるのは、京の街全体です。

なるほど。
この立地、大事ですよね。

山深いところになぜ?と思ってしまうのは、現代人の感覚かもしれません。

この場所からは、京都がよく見えますし、山をいくつか越えれば若狭の国、良港に恵まれた国際都市・小浜に出られます。
それに、素人目ではありますが、池の水の色を見ても土壌に石灰が多く含まれているように見受けられましたし、多くは赤土で鉄分も多そうな感じでした。
鉱物資源にも恵まれてる山系なのかもしれません。

こうしたことを、肌で感じられるのが、現場に立つことの意味でしょう。理屈じゃなくて染み入ってくるものがあります。

それにしても幸先のいいスタートでした。

(むとう)

【2015会津旅】③復元・慧日寺跡で妄想。そして徳一さんのお墓「徳一廟」へ

さてさて、徳一さんに思いをはせつつ、金堂(復元)を出ましてぐるっと回ってみましょう。

金堂の裏手には講堂跡がありまして…

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こんなかんじです。
柱跡によって示されてますので、後は妄想力で98%カバーしましょう。
この講堂の奥には食堂(じきどう)がありますが、そばまで行かなくてもいいかな~と思って、遠方から眺めるにとどめました。そして講堂の右手には仏堂跡があります。碑が建てられておりまして、遠目で見ますと鶴石亀石、みたいな様相を呈しておりまして、なんとなくお庭っぽい、

なかなか妄想力全開にしましても、往時の姿を想像するのは困難ではありますが、金堂があり、講堂、食堂、仏堂があるというのは、とにかく簡単に言えば大伽藍です。しかも、この復元されているところは、中心部ではありますが、全体を見たらほんの一部なんだそうで、

「磐梯山の山体の西側には、より古い火山である猫魔火山の外輪山をなす猫魔ヶ岳、厩嶽山・古城ヶ峰など1000メートルを超す山々が連なっています。恵日寺の伽藍はこれらの山々の南斜面に広く展開していたようですが、往時の広がりはいまだ明確に計り知れておらず、山中にはまだまだ多くの建物跡が埋もれていいると思われます」(磐梯町資料『史跡慧日寺跡』より引用)

だそうですよ!
想像を絶する規模の巨大仏教センターが、この磐梯山山ろくに展開していたということですね。

そして、いよいよ今回私がどうしても慧日寺にきてみたかった理由の場所を、拝観しにまいりましょう。

おほほほ、こちらですわよ~。
そうです、私は「徳一廟」、つまり、徳一さんのお墓にお参りしたかったのです。徳一さんのお墓はこの史跡から少し歩く場所にあるようで、ゲートがありますね、どれどれ……。

……と。
んんん???
aidsu3これまでも、実は看板が随所にありまして、でもあまり気にしなかったんですけど、ここまで何度も書かれてますと、さすがに気になります。クマとハチに注意しろと!??

うううむ。

根がビビりな私の足は止まりました。

何しろ、この史跡跡に入場してから、受付のおねえさま方以外の人類にお目にかかっておりません。けっこうしつこく一時間くらいこの場所にいたのに、です。
つまり、圧倒的に、人の気配より自然物の気配のほうが濃厚です。

やだなあ、クマ。間違いなくこの辺熊いるよ、わかるよ、なんとなく。

しかし、ここでお墓参りしないってのは、あまりにも悲しい。
勇気を振り絞って、観に行くことにしました。いざとなったらどうにもなりませんので、いざとなりませんように、とお祈りしつつ前へと進みます。

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おおお!ありました!
あれが、徳一さんのお墓の覆い屋です!!

このなかに、徳一さんのお墓だと伝わる石塔が安置されているのです。
それにしましても、ずっと蜂の羽音がぶんぶん言ってます。ううう、こわいよう。

ビビりながらも、まず、正面で手を合わせお参。そしてちょっと失礼して中を覗いてみますと……

aidsu7ありました!
こちらが徳一さんのお墓だと伝わる石塔(五重層塔)です。

ちょっとイシブ的な見方になっちゃいますが、なるほど、これは古様です。屋根の軒ぞりがゆるやかで、大らかな感じがします。たしかにこれは平安時代までさかのぼりそうな趣きです。

この塔、積雪で倒壊したことがあったそうで、その際に二重目から土師器の甕(かめ)が発見されたそうです。資料が見つけられなかったのですが、中には何か入っていたんでしょうか。ひょっとして徳一さんの舎利(遺骨)が入っていたんでしょうか。
ちなみに、徳一さんのお墓と伝わるところは、実はここだけではありません。分骨しておまつりしたのかもしれませんね。

(続く)