【関西旅】②「山の宗教」修験道の始まりの場所・吉野大峯/『山の神仏』展@大阪市立美術館

吉野といえば「蔵王権現(ざおうごんげん)」
展示の第一部は「吉野大峯」。
『山の神仏』という名前にふさわしいスタートですね!
よく「山の宗教」とも言われる「修験道(しゅげんどう)」が生まれた場所がこの吉野・大峯なのです。

「修験道」というと分かりにくいかもしれませんが、「山伏(やまぶし)」と聞くと、ああ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。時代劇なんかで見かけるあの山伏は、この修験道の行者さんです。

修験道というのは、日本ならではの仏教、ともいうべきもので、日本古来の自然崇拝とインドで生まれ伝達された仏教とが合わさってできた宗教、といったもの。

「極端な言い方をするならば、仏教を父に、神道を母に、いわば仏教と神道という仲の良い夫婦のもとに生まれた子どものような存在である」
(図録P193「吉野大峯の神仏」田中利典氏執筆より引用)

そんなわけで、本来仏教の経典にはない神仏もたくさん出現して今に伝わっています。

この修験道の祖と言われているのが、「役小角(えんのおづぬ)」です。役小角は吉野大峯で修業しているときに、「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)」という、強烈な尊格を感得しました。この「蔵王権現」こそ、修験で最も重要な存在であり、吉野大峯ならではの仏さんなわけです。

以前、吉野の金峯山寺に行った時のレポートで、イラストを描いたことがあったので再喝。
蔵王権現ううむ。あまりこわくない。実際にはもっと激しくて峻烈なかっこいい尊像ですが、でも形を見ていただけたらと思います。

「仏様」と言われると優しげな様子を思い浮かべる人も多いと思いますが、蔵王権現さんはその真逆ですね。青黒い肌に怒りの形相(憤怒相)、左手は刀印を結び、右手には三鈷杵(古代インドの武器の一種で、仏教では法具)を持って振り上げ、右足は大きく蹴り上げています。

先ほど引用した図録にも「深山幽谷を道場に、命がけの難行苦行に身を置く実践宗教・修験道に相応しい力強い尊像である」(P195)とありますが、まさにその通り。厳しい自然の中では、受け止めて慰めてくれる優しい様子の仏さんではなく、叱咤激励してくれる仏さんのほうが相応しいのでしょうね。

展示では、この蔵王権現の尊像をはじめ、吉野の宗教世界を表わす曼荼羅などが展示されていて、その世界を感じさせていただけました。

また蔵王権現以外にも、吉野ならではの神々がいらして、その姿もその曼荼羅をはじめ、いろいろ描かれているのですが、特に印象的だったのは「天河弁財天」を描いた「天川弁財天曼荼羅図」(室町・能満院)ですね。

こちらに掲載することはできませんが、とにかく強烈!弁財天さんと言いますと、だいたい美しい女性の姿で表されますが、この曼荼羅図の弁財天は、顔が蛇で、しかも三つの顔があり、口から宝珠をはいている、というお姿。

弁財天は水にかかわる神さまなので、蛇身の神さまである宇賀神(うがじん)と習合して描かれることも多いのですが、浅学ながら、お顔そのものが「蛇」というのは初めて見ました。すごいなあ。強烈だなあ。ネットで調べてみますと、この像容は有名なんですね。天河弁財天ならではって感じなのでしょうか。

図録がいいかんじ!
さて、このレポートは本展の図録『山の神仏』を読みながら書いていますが、この図録がすごくいいかんじ。
20140527-10ストレートな作りですし、一見そっけない構成ですが、寄稿されてる先生方の文章が私のような素人にもわかりやすいです。なるほどな~、とうなずきながら拝読してます。

そして造本デザインがまたかっこいい!
一見地味ですが、予算も限られてる中でデザイナーさんの工夫が随所にひかります。カバーは色のある紙に二色摺り(黄色の特色とスミ)で抑えてますが、見返しは少し透ける片面色紙に一色印刷で、本扉のタイトルが透けるようになっており、そこから光が放射されているように見えるデザインです。
20140527-9余分なことは一切してない。でも、必要十分で、コンセプトを際立たせる演出をしてくれてます。こういうのは本当にいいデザインですよね。

と、ちょっと話がずれてしまいましたが、話を戻しますと…。

第二部は「熊野三山」ですよ。

(続く)

 

【関西旅】①三つの霊地が集中する「紀伊半島」の宗教空間を感じる。/『山の神仏』展@大阪市立美術館

紀伊は、「異界之地」
もう15年ほど前になりますが、初めて熊野界隈(紀伊半島南部)を訪れたとき、

「なるほど、ここはまさに根の国、『異界』だわ」

と思いました。

どんなに進んでも同じように見える山地の様子、下流よりも上流につれて広くなっていく熊野川。車で回ったのにもかかわらず、やたらと「果てしない」、自分が前に進めているのかさえ定かでないような気がしてだんだん怖くなりました。
そしてこれまでの常識では読めない地形に、感覚を狂わされるような気がしたのです。河は下流のほうが川幅がある、という常識にとらわれていると、川の上流のほうにある本宮のところでぱっと広がる広大な河川敷の光景は、不思議でしょうがありません。燦々と輝く夏の木漏れ日の中、私はわけもなく「ぞっとした」のでした。

……これが、私の熊野初体験。

この時感じた「畏れ」のようなものは、その後何度いっても変わらずに持ち続けています。この感覚は、「熊野」に限ったことではありません。「吉野」もそんな風に感じます。残念ながら高野山はまだ行ったことがないので、想像の域にすぎませんが、私にとって紀伊半島は「普通ではない場所」なのです。まさに『異界』。
そしてそう思うのは私だけではありません。長い歴史のなかで、この場所は非常の地でありました。生というよりは死、この世というよりは、あの世。またはそんな両極端なコンセプトを軽々と往来できてしまうような、…異空間のような場所です。
こわいけど魅力的で、ひきつけられてしまうのです。

初!大阪市立美術館
そんなわけで、大阪市立美術館で開催された『山の神仏』展はどうしても行きたかった。たまたま決まった京都取材旅にかこつけて、一日早く関西入り。大阪は天王寺にある大阪市立美術館にいくことができました。本当にラッキーでした。

20140527-2天王寺駅から程ないところにある天王寺公園の、中心的な施設がこの大阪市立美術館です。立派な建物ですよね!??住友家の本邸だった建物なんだそうですが、さすがさすが。
20140527-8そしてこちらが入口です。かっこいいですねえ!
ちなみに、今回のポスターや図録のアートワークはかなりかっこいい。このポスターもいいですよね。ちなみにこちらの獅子と狛犬は吉野水分(みくまり)神社のもので鎌倉時代のものです。かっこい~!
20140527-1そしてこちらがエントランスホール。ここは写真撮ってもいいと書かれていたので、ぱしゃり。それにしてもゴージャスですねえ。

展示も楽しみですが、こちらの建物を拝見するだけでも十分楽しめちゃいますね。またこちらの庭はあの小川治兵衛作庭によるもの。このお庭については、また別の機会に書きたいと思いますが、見ごたえ抜群の公園です!

さて、展示は3部構成になっています。第一部は「吉野・大峯」、第二部は「熊野三山」、第三部は「高野山」。解説はあの山折哲雄先生だというので、珍しく音声ガイドも借りてみました。今回はかなり濃ゆい内容。何しろ三部構成のそれぞれが、一つの展覧会として成り立つくらい、深くて複雑な世界を持ったものです。先生の解説を伺ったほうが少しでも理解できるかな?と思ったからなのでした。

一部の「吉野」から見始めてすぐに「わあ、これは体力持つかな…」と思いましたよ。とにかく濃すぎ!!

こりゃたいへんだあ!

(続く)

【山梨旅】武田氏ゆかりのお寺で仏像を観る②大善寺さんの「葡萄薬師」その弐

葡萄薬師はもともとは葡萄を持ってなかった??
「葡萄薬師」突然の秘仏化に動揺しながらも、ヨレヨレしつつ、鎌倉時代の日光月光さんと、十二神将さんを拝観します。

こちらの日光月光さんは鎌倉時代の、関東界隈の香りを強く感じるお顔立ちですね。鎌倉にあります覚園寺さんの薬師三尊さんの両脇侍を、ふと思い浮かべてしまう感じ。全体的にキリッとした強い表情。口元はキュッと引き絞って少々厳しい。切れ長の目には玉眼が入っています。時代も結構近いんじゃないかな…

さて、そんなあてずっぽうばかりではあれですし、もうちょっと詳しく知りたいと思い、朱印をしていただく間に、こんな本を購入してみました。

大善寺図録なぜ、表紙が十二神将のクビラ大将なのか、ちょっと謎ですが、立派な本ですよ。

さて、ちょっと本を読み込みますと、大変意外なことが書かれていました!

現在、葡萄薬師と呼ばれるご本尊さんは、お寺のパンフレットなど見ますと、左手に葡萄の房を乗せ、右手は降魔印(触地印)で、膝の前に手を伏せ人差し指を下に伸ばして地面に触れるような感じになっています。
#お寺のHPをご覧いただくと、ご本尊の写真をみることができます→HP

しかし、この形になったのは昭和5年の修理の時だったというのです。それまでは、右手は上向きで、左手も上向きであり現在は失われていますが薬壺(やっこ)を乗せていたと考えられる、と書かれています。

「鎌倉時代初頭頃仏教図像集である『覚禅抄(かくぜんしょう)』には、様々な薬師如来の姿を説くが、中に左手に宝印、右手に葡萄を持つ薬師のあることを記す。」(P34から引用)

宝印、というのは宝珠のことでしょうか。宝印というと仏を象徴する文字や真言のことを指すので、立体物ではないような…。

最も一般的な薬師さんの持ち物は、薬壺なので、宝珠というのでも珍しいですけど、葡萄と宝珠の組み合わせに何か意味があるのかな??

「葡萄は千手観音の持物(じぶつ)の一つとするように、古くから仏教とかかわりのある果実である。本像には、往古は葡萄を持っていたという伝承があるが、或は、造立当時の右手には葡萄を持っていたかもしれない」(P34から引用)

なるほど、つまり現在葡萄を持っているのは、割と最近から乗せるようになったということなのかな?文化財指定になっている写真を見ますと、確かに左手には葡萄のってないです。が、パンフレットやHP のお像は葡萄をのせてます。

つまりこんなかんじ?

造立当時→左手に宝印、右手に葡萄
昭和5年以前→左手に薬壺、右手は??
昭和5年以降→左手に葡萄、右手は下向きにして降魔印に変更

印相(仏さんの手の形。いろんな意味があります)って、けっこう変えちゃうもんなんですね。

紆余曲折てんこ盛りのお寺の歴史とお寺の縁起
変えちゃう、というかそれもごもっとも、と思いますのが、この本に記されているお寺さんの歴史の複雑さです。

創建された時期についても、説がいくつかあるようなんですが、ものすごく端折ってしまいますと、非常に大きなお寺さんですので、塔頭がたくさんあったわけですね。その中で中心になる塔頭も、歴史とともに変遷してきてるんですけど、そのためにいろんな歴史がごちゃまぜになってわかりにくくなってしまってる、って感じですね。

また、有名なこのお寺の縁起、行基(ぎょうき)さんがこの辺りで行をしていたところ、夢の中に葡萄を持った薬師如来が現れて…、というお話は、どうもあくまでも伝承といえそうです。鎌倉時代に民衆の間に、行基信仰が流行したのですが、おそらくその時に由緒として組み込まれたって感じですね。で、江戸時代に定着した、と。

これだけ長い歴史のあるお寺さんですから、そりゃもういろいろありますよね。そりゃそうだ。
大善寺

そんな長い歴史のなかでも、人々の必死の努力で守られてきた本堂や仏像が、いかに貴重か、ということですよね。

「行基さんが葡萄を持った薬師如来さんを夢で見て、その姿をお像に彫ってお寺を作り、薬園を作って民衆を救った。法薬である葡萄の栽培方法を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりと伝わる」

というこの縁起。何とも言えずいいお話ですよ。

土地の人に愛され大切に守られていく中で、このような縁起ができ伝えられてきたんだろうなあ。学術的にはそうじゃないかもしれなくても、やはりお寺の縁起はこのお話がふさわしいな、なんて思いました。

さて、大善寺はまた5年後にも来なくてならなくなってしまいましたが――何度でも足を運ぶ価値のあるお寺さんですからね。また来ますよ!――、今日は次のお寺へそろそろ向かわないと。あと3つのお寺さんを巡るつもりなので時間に余裕がありません。

そんなわけで。

大善寺の次には、塩山駅ちかくにある「向嶽寺」さんへと向かいます。

(続く)

大善寺
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