【仏勉】仏画・曼荼羅の世界を楽しみたい


仏像は好きだけど仏画はちょっと苦手、と思ってました

仏像は大好きでよく観仏に出かけておりますが、平面的な方向は大変弱いのですね。

よく考えたら、これって不思議なことですね。普段でしたら絵も大好きですからよく観に行きますし、自分でも下手な絵をよく書いています。…それなのに、仏教に限っては、絵画が苦手、とは。これいかに。

実は、これには理由があるんです。

まず理由の第一は、「すごく難しい感じがするので苦手」。特に「曼荼羅」となると、複雑すぎます。ざっくり金剛界・胎蔵界の二つの世界を表わす曼荼羅がある、ということぐらいしか知りません。

そして第二の理由は、これまでいいものに出会ってこなかった。ということだったみたいなのです。すごくシンプルな理由。

このことに気が付いたのは、昨年開催された『ボストン美術館 日本美術の至宝』展でのこと。さすが、フェノロサ、ビゲロー、岡倉天心が買い集めただけあって、ま~筋のいいものばかり!
私のような素人にもそのクオリティの高さには、驚愕させられました。特に、仏画のクオリティは思わず声をあげてしまうほど。

「あああ、ここまでふりきってたら私にもわかります~~!」

と心の中で叫びました。

つまり、たいしていい眼は持ってないですけども、振り切って素晴らしいものというのはわかります。2位、3位、4位の差はわからないけど、1位はわかる、みたいな。そんなかんじ。

難しくてもわからなくても、「自分が好きなもの」ができたらこっちのもの
特に『法華堂根本曼荼羅図』(奈良時代)なんてもう!!
これは、東大寺の法華堂(三月堂)に伝わったものだそうで、日本にあったら間違いなく国宝ですよ。お釈迦さんが法華経を説くシーンを描いたもので、こういうものも「曼荼羅」とよびんですね。

法華堂根本曼荼羅図@ボストン美術館像

(『ボストン美術館 日本美術の至宝』展図録P54より引用)

夢見るように美しいお釈迦さんと脇侍の菩薩さんとそのほか諸尊の皆さん。素晴らしいです。

私はこの仏画をはじめ、ボストン美術館所蔵のあまりに素晴らしい仏画群を見てはっきり認識しました。「仏画ってわからない」じゃなくて単に「素晴らしい仏画に出会えてなかったけ」だってこと。

私がふだんから金科玉条?のごとくおもっている「わからなくても何でも、圧倒的にいいもんはわかる!』法則は、やはり有効なのですよ。

こういう体験があると、ちょっとしたフックが自分の中でできてくるので、仏画を見ることが自分にとって意味のあることになっていきます。

このフックというのは、この場合、
「自分にとってすごく好きだと思った『法華堂根本曼荼羅図』」が、自分の好みの核になった」ということを意味しています。これができますと、その定点をもっていろいろものを見られるようになるので、すごく世界が広がるのです。

さて、そんなわけで、根津美術館で開催中の「曼荼羅展」、そんな自分を試す意味も込みでとても楽しみにしておりました。

私のフックは有効なのか??
そして、私にとって仏画はいまだ「難しいもの」の域を出ないのか?

わからないまでも、楽しみたい、これが私の小さな野望だったのです。

(続く)

【仏勉】④世界と私。そしてバランス・調和。

自分がどう成り立ってるか、まず理解する
前回、かなりの飛躍はあるにしろ「世界は私、私は世界である」というところまで、私なりに理解しました。引き続き『日本仏像事典』(真鍋俊照編・吉川弘文館)の「仏教~原始仏教の思想」を読んでみましょう。

以下の三つの理(ことわり)で、私たちは成り立っている、ということみたいです。

■「苦」……自分の思い通りにならないこと
■「無常」……すべてのことは因縁が絡み合って作られたもので、常に変遷するものである。
■「無我」……「無常」の理から考えて、私たちを構成している物質的な要素、機能のいずれも「自己」と解することはできない。(前回「世界は私、私は世界」ってこと?と理解した部分)

さらに、抄訳してみますと…

『迷いの根本は、‟盲目的な欲望”である。
「苦」からの離脱を求める人は、「苦」「無常」「無我」の理をよく理解して、認識を持ち、迷いの根本である「執着・愛欲」を絶たなくてはならない。』

なるほど~~。確かに、迷ってるときって、覚悟が決まってないというか、心が定まらない状態の時ですよね。

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

迷いは「盲目的な欲望」から生まれる
自分を顧みても、「だまされるんじゃないか」「バカにされるんじゃないか」、「損するんじゃないか」…、そんな考えが背後にあるとき、迷ってる状態に陥っている気がします。「怯えてる」とも言えますね。

「よくわからないから不安」。だから怯えてる。怖いので、自分を守る方法として、他者に対して「攻撃」が出てくる。
「よくわからないけど、自分が損したらやだ、得したい」。

こういうが「盲目的な欲望」、なのかな。

仏教では、こういう「盲目的欲望」を断ち切るためには、修行に努め、戒律を守り、禅譲を修める必要があると説きます。これが、「解脱」の境地であり、「涅槃」とも呼ばれるんだそうです。

でもって、これを実践するためには、快楽を求めすぎるのではなく、また苦行をしすぎることのないライン【中道】がいいとし、他者に対しては、人間だけではなく一切の生きとし生けるものに対して慈悲を及ぼすことを理想としました。

でも、こういうことって、そうそうできませんよね。修行とか。普通の人には難しいし。お坊さんになるってめちゃくちゃハードル高いですよね。

私たちにもできること
シッダッタさんは、別に出家修行をしなくても、在家でも実践できます、と言ってます。

個人的な戒律には5つあって、

1.生き物を殺すな
2.盗みをするな
3.邪淫を行うな
4.虚言を言うな
5.酒を飲むな

なんだそうです。
1.は難しいなあ。食べ物を食べる限り、生き物を殺し続けてますものね。
例えば、魚や肉を食べるのをやめたとしても、野菜はいいのかな?
以前から思ってたんですけど、野菜だって生き物ですよね。果実や穀物はいい気がするなあ。これらは「生ったもの」で、その命を一部わけでもらう、というなら矛盾しない。あ、植物も、根から全部食べちゃうんじゃなくて葉っぱを一部もらうなら矛盾しないか。

盗み、はしないようにすれば盗まないで済みそう。
邪淫、虚言、これはまあ大丈夫かな。
酒、もともと飲めないから大丈夫。

あ、でも虚言に関しては、結構「オトナな配慮」の中、うそをついたりしてることはあるなあ。
よくやってるのが、同居している両親に、本当は友人とごはん食べるために外食したんだけど、ブーブーうるさいので、打ち合わせってことにするとか。
これもウソ、っていえばウソですね。こういうのはいいんだろうか…^^;。

ま、それはともかく、この「五戒」って、まあまあ守れそうですね。

こうしてみていくと、シッダッタさんは、すごくまっとうなことをお勧めしてますよね。
つまり、大切なのは『調和』なのかなあ、と感じました。

自分だけいいってのもバランス悪いし、相手のためだけに何かするっていうのもバランス悪い。苦行をして自分を痛めつけるのもやりすぎだし、愉しいと思うことだけをするというのもなんかやりすぎ。

自分のことも、他者にやさしくするようにやさしくする。
他者には自分のことを大切にするように大切にする。

そんなことが、一般人な私たちにとってもとても大切なんじゃないかな~、なんて。

(続く)

【仏勉】③シッダッタさんの言いたかったこと(?)

仏教はとっても複雑
さて、そんなシッダッタさんの教えとは一体どんなものだったんでしょう?
実は、仏教というのはとっても複雑。長い年月の中で、様々な経典が生まれ、考え方が生まれ、いろんな土地の神々が影響を与えたりして、ありとあらゆる変容を遂げていきます。

なので、お釈迦さんが言ってることだけが、仏教において大切だというわけでもないのです。お釈迦さん以外の仏さんやお坊さんがそれぞれに大切なことを説いたりしてて…。
まあ、でもキリスト教やいろいろな宗教でも同じことかもしれませんね。長い歴史を超えますと、大切なことや聖人が出てきますし、いろんな説が現れてくるのも当然のことかもしれません。
それだけ、「生きることとは一体なんなんだろう」と真剣に考えてきた人たちがいた、ということですよね。

菩提樹下の仏陀@ワット・ポー(バンコク)

菩提樹下の仏陀@ワット・ポー(バンコク)

人生は思い通りになりませぬ
そんなわけで、ものすごーく複雑なので、私ごときシロウトがどうこう言えるものではありません。正直言って、あんまり難しいので、仏教美術が好きだ!と長年言いながら、まったく詳しくないし、勉強もしてきませんでした(すみません)。
でも、このブログでは、(私が^^;)お勉強する、というのが裏テーマでもあるので、無理は承知でまとめてみたいと思います。

手元にある『日本仏像事典』(真鍋俊照編・吉川弘文館)の「仏教~原始仏教の思想」を読んでみましたところ…
ムムムむ…。

む、難しいので、まずその一。(分けて覚えていくつもり…^^;)

【人生は「苦」に満ちている。「苦」とは、「自分の思い通りにならないこと」をいう。なぜ思い通りにならないかというと、世界のいろんなことはあらゆることが関係しあって作られたものなので、常に変化しているから、自分の思い通りにならない。なので、どんなものも「自分のものである」とか「自分」ということを考えたらあきまへん。】

なるほどなるほど。
これはなんだかちょっとわかります。

確かに自分の思い通りになることって、そうそうはないですよね~~!
もちろん、こまごまとは、ありますよ。たとえば「今日作った豚のしょうが焼きは、狙い通りの味を出せた!」とか。行きたい大学に行けた、とか就職できた、とかそういうのは、ね。

でも、大きな意味で、おそらく決定的に、思い通りにならないことがあります。
それは自分が「死ぬ」ということ。

もちろん、「自殺」でしたら、自分がいつ死ぬかコントロールすることはできるかもしれません。
でも、どんなに死にたくなくても「死なないでいる」を選ぶことはできません。すべての人に平等に「死」という最後の幕が用意されているわけですよね。

「私」は「世界」でもある?
ちょっと飛躍しちゃいましたが、以下の部分は、すごい救いですよね!

これって、つまり。

「人生というのは思い通りにならない、なぜなら、いろんなことが関係しあってて、そして変化し続けるものだから」。

ふんふん…要するに…

『自分がすべてどうこうできることでもない。でも自分がしたことが無意味なことでも、小さなことでもない。すべてが関係しあって、響きあって、出来上がってるのがこの世界なんだから』。

と、読み下しましたよ!
前向き&楽天家な私としましては!

そういう世界観では、確かに「これは自分のものだ!」と主張しても、「私は私だ!」と言い張っても、あんまり意味ないですね。なぜなら、私は世界で、世界は私なのだし。

ふむふむ。なんか前向きな感じになってきました!
(続く)