【仏勉】④世界と私。そしてバランス・調和。

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自分がどう成り立ってるか、まず理解する
前回、かなりの飛躍はあるにしろ「世界は私、私は世界である」というところまで、私なりに理解しました。引き続き『日本仏像事典』(真鍋俊照編・吉川弘文館)の「仏教~原始仏教の思想」を読んでみましょう。

以下の三つの理(ことわり)で、私たちは成り立っている、ということみたいです。

■「苦」……自分の思い通りにならないこと
■「無常」……すべてのことは因縁が絡み合って作られたもので、常に変遷するものである。
■「無我」……「無常」の理から考えて、私たちを構成している物質的な要素、機能のいずれも「自己」と解することはできない。(前回「世界は私、私は世界」ってこと?と理解した部分)

さらに、抄訳してみますと…

『迷いの根本は、‟盲目的な欲望”である。
「苦」からの離脱を求める人は、「苦」「無常」「無我」の理をよく理解して、認識を持ち、迷いの根本である「執着・愛欲」を絶たなくてはならない。』

なるほど~~。確かに、迷ってるときって、覚悟が決まってないというか、心が定まらない状態の時ですよね。

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

仏陀@プラ・パトム・チェディ@ナコーンパトム:タイ

迷いは「盲目的な欲望」から生まれる
自分を顧みても、「だまされるんじゃないか」「バカにされるんじゃないか」、「損するんじゃないか」…、そんな考えが背後にあるとき、迷ってる状態に陥っている気がします。「怯えてる」とも言えますね。

「よくわからないから不安」。だから怯えてる。怖いので、自分を守る方法として、他者に対して「攻撃」が出てくる。
「よくわからないけど、自分が損したらやだ、得したい」。

こういうが「盲目的な欲望」、なのかな。

仏教では、こういう「盲目的欲望」を断ち切るためには、修行に努め、戒律を守り、禅譲を修める必要があると説きます。これが、「解脱」の境地であり、「涅槃」とも呼ばれるんだそうです。

でもって、これを実践するためには、快楽を求めすぎるのではなく、また苦行をしすぎることのないライン【中道】がいいとし、他者に対しては、人間だけではなく一切の生きとし生けるものに対して慈悲を及ぼすことを理想としました。

でも、こういうことって、そうそうできませんよね。修行とか。普通の人には難しいし。お坊さんになるってめちゃくちゃハードル高いですよね。

私たちにもできること
シッダッタさんは、別に出家修行をしなくても、在家でも実践できます、と言ってます。

個人的な戒律には5つあって、

1.生き物を殺すな
2.盗みをするな
3.邪淫を行うな
4.虚言を言うな
5.酒を飲むな

なんだそうです。
1.は難しいなあ。食べ物を食べる限り、生き物を殺し続けてますものね。
例えば、魚や肉を食べるのをやめたとしても、野菜はいいのかな?
以前から思ってたんですけど、野菜だって生き物ですよね。果実や穀物はいい気がするなあ。これらは「生ったもの」で、その命を一部わけでもらう、というなら矛盾しない。あ、植物も、根から全部食べちゃうんじゃなくて葉っぱを一部もらうなら矛盾しないか。

盗み、はしないようにすれば盗まないで済みそう。
邪淫、虚言、これはまあ大丈夫かな。
酒、もともと飲めないから大丈夫。

あ、でも虚言に関しては、結構「オトナな配慮」の中、うそをついたりしてることはあるなあ。
よくやってるのが、同居している両親に、本当は友人とごはん食べるために外食したんだけど、ブーブーうるさいので、打ち合わせってことにするとか。
これもウソ、っていえばウソですね。こういうのはいいんだろうか…^^;。

ま、それはともかく、この「五戒」って、まあまあ守れそうですね。

こうしてみていくと、シッダッタさんは、すごくまっとうなことをお勧めしてますよね。
つまり、大切なのは『調和』なのかなあ、と感じました。

自分だけいいってのもバランス悪いし、相手のためだけに何かするっていうのもバランス悪い。苦行をして自分を痛めつけるのもやりすぎだし、愉しいと思うことだけをするというのもなんかやりすぎ。

自分のことも、他者にやさしくするようにやさしくする。
他者には自分のことを大切にするように大切にする。

そんなことが、一般人な私たちにとってもとても大切なんじゃないかな~、なんて。

(続く)

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