【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑨宗氏の菩提寺で気づいた、とある「違和感」

そして対馬旅は、宗氏菩提寺「万松院」から始まった

そんなわけで、宗氏の菩提寺である「万松院」へやってきました。

立派な山門は、対馬藩二代目藩主・義成(よしなり)が創建した時(1615年)のものだそうです。
入口は、左手にあり、左手の入り口から入ります。

境内は、思ったよりもかなりコンパクトです。

建物と、山門の間がすごい狭い。
境内のレイアウト、土地もありそうだしもっと広くできる気がするんですけど…

「この凄まじい角度は、いったい……」

友人Kが呟きました。
確かに、門からのアプローチ、こんな角度。
角っ角っとなっちゃってますよ。

なんだろう、これ。スペースの問題でしょうか。建築家工夫しまくりの狭小住宅みたいなかくどって言うか。

……うーん、、やっぱおかしいですよね。
なんと言ってもここは島主の菩提寺です。スペース取り放題でしょう、普通。

そう言えば、入口のとこ、山門までのアプローチにも、やたら長い参道の割に、角度がありましたよ。

これ、これですよ。
濃いオレンジと、黄色で書いてみましたが、一度「角っ」となってますでしょ?

そいでもって、門から本堂へのアプローチも、この角度です。さらに激しく「角っ」となってます。

ひょっとして、これは、魔封じでしょうか。
うーん。それともスペースどりの問題……?

宗氏重代の墓所「御霊屋(おたまや)」へと

違和感を感じながらも、たまたまかもしれないしねえ、と呟き合いながらお詣り続行。

ちなみに、本堂は、明治時代の伯爵・宗重正公の寄進だそうで、シンプルで品の良い感じです。お詣りをしてから、お堂の左手に行くと、宗氏重代の墓所があります。

こ、これは、すごい。
本堂のコンパクトさに対して、このスケール感。石段が延々と続いています。

この時の気温、36度。
体感はもっと過酷な温度に感じるのは湿度のせいか……

それにしても広い。
実に広大です。
この石の階段の右わきには、藩主の側室や子供たちのお墓、階段を登り切って…、

さらにもう一段階段を上ると、大きなスギの木がドーンとあり、向かって左の正面の階段を上ると、ようやく藩主の墓所「御霊屋」があります。

上の写真が、御霊屋ですが、これでごく一部です。

すごいですよ!この広さ!
お寺さんの庫裡の大きさに比べて、この墓所の広さったら…

どう考えましても、こちらの墓所が主役。お寺さんは、そのお守りをするためのもの、という感じがとても強いです。
ちょっと矛盾した言い方かもしれませんけども、ものすごく神社っぽい。

例えば、米沢の上杉神社みたいに、歴代藩主の御霊がご神体で、神さまとしてお祀りしている、そんな場所に似ている気がします。
そういう意味ではほかの場所でも、ない話ではありません。しかしこの時感じた「違和感」はなかなかどうして。今回の旅にとってけっこう重要なポイントだったとあとあと気付くことになるのです。

(続く)

 

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑧宗氏はどうして「宗」なんでしょう?(…大胆にも妄想仮説)

惟宗(これむね)氏のルーツ〈秦氏〉を考えてみる

対馬を長らく統治した「宗氏」をさかのぼると、惟宗(これむね)氏に行きあたります。この「惟宗」と言う氏族は、秦(はた)氏系の氏族である、と辞書などに書いてあります。

そこで、「出た!秦氏!」と思わず浮足立ってしまうのは、歴史ファンとして仕方ないですよね。
秦氏と言えば、京都太秦(うずまさ)の…と思い浮かべる人も多いかと思います。『新撰姓氏録』などによれば、「秦の始皇帝の末裔で、百済からやってきた」とということですが、様々な説があるようです。でも私は、新羅系だろうな、と思っています。

――なぜならば。
秦氏の氏寺・太秦寺の仏像が、〈新羅系〉のお顔をしてるからです!(単純!)

数年前、韓国の仏像や仏塔を見て廻ったことがあるんですけども、その時に、慶州を訪ねて、仏国寺、石窟庵で8世紀の仏像のお顔を拝見した瞬間、「あっ」と腑に落ちちゃいました。ああ、秦氏は新羅系だわ、と。

それまでは、秦氏というのは百済系だというけれども、なんかちょっと違うよなあ、やっぱり朝鮮半島に移住した中国系氏族だからなのかしら…、なんて思っていたんですが、あ、やっぱ新羅系、と確信してしまったのです。

(写真:仏国寺大雄殿。文章と関係ないですけども、この石燈籠の素晴らしさと言ったらもう!見てるだけで興奮してしまうレベル)

(仏国寺でとにかく見るべきなのは、この多宝塔と…)

(写真:そして釈迦塔。この塔二基と石灯籠、および石造の構造物は774年創建当時のものですよ。新羅仏教美術最盛期のものですよ。そりゃもう、素晴らしすぎて石造美術ファンなら鼻血出ちゃいますよ)

 

何をもって美とするかは、固有の美意識そのもの

美しさに対する好みというのは、時代の趨勢・流行もありますが、本質的にその氏族(今風に言えば民族)の特徴が出やすいと思います。
特に仏像のお顔には、その美意識のすべてが注力されますから、明確に出るように思うのです。

石窟庵のお像・釈迦如来のお顔は、紛れもなく、太秦広隆寺 (こうりゅうじ)の有名な「弥勒菩薩半跏思唯像」のお顔の方向性だったんです。
写真では何度も見ていましたけど、そんな感覚は全くなかった。仏像を見るときに、こうしたことはよく起こります。写真ではなかなかこの「美の空気感」みたいなものは、感じられないんです。
やはり実際に拝観しないと分からないものなのかもしれません。

有名な秦河勝(かわかつ)が新羅仏教の信奉者であったことは、有名な話ですが、それからしても、やはり新羅系ですよね。信教のチョイスと美意識は、ルーツと密接に関係しているだろうと思うからです。

「海」を表わす言葉「ハタ」、「アマ」、「ウミ」

さて、この「秦」氏の「ハタ」。これはやっぱり、「海」のことを指してるんじゃないでしょうか。
古い日本語では、海を「ワタ」と言いました。海神の名のひとつに「ワタツミノカミ」があるように、「ワタ」は海のこと。朝鮮語の「パダ」とほぼ一緒ですね。

ちなみに、海を表わす古い言葉に「アマ」があります。「天」も「アマ」といいますが、ある瞬間に天と海の境が無くなるような体験をする海洋民族ならではの言葉遣いな気がしますね。
(写真:対馬の北部、千俵蒔山近くから臨む海。「天(アマ)」と「海(アマ)」の境目のあわいが美しい)

そういえば、今最も一般的な「海(ウミ)」はどうなんでしょう。いつから使われていたんでしょうか。

『国語大辞典』の用例を見てみますと、「宇美(ウミ)」として、古事記に登場しています。こちらも、「アマ」「ワタ」と同じくらい古い言葉のようですね。

しかし、アマとワタと決定的に違うと思われるのは、淡水も「ウミ」というところ。
『全文全訳古語辞典』には、「広く水をたたえている所。海洋のほか、湖・沼、大きな池などをもいう」とあります。
語源も、何だか果てしなくあるんですが、その中のひとつに「大水の意」というのがあります。なんとなくこのあたりが妥当なのかな、という感じですね。つまり、「ウミ」は、「水がたくさんある場所」のことを表現した言葉のような感じですね。
そう言えば、神さまの名前で「ウミ」とつく神さまはいましたっけ??
思いつかないですね……。

「惟宗」が、どうして「宗」氏になったのか

さて、その秦氏の一族である「惟宗」氏は、もともとは讃岐国に住む、法律に明るい一族だったそうです。
その惟宗氏が、鎌倉時代になって、九州の守護・少弐氏に使えるようになったのはなぜかはわかりませんが、いずれにせよ、「海」を通じて何か繋がっていくものがあったのかもしれません。

そこで、ですよ。

その「惟宗」氏が、文永の役には、「宗」氏と名乗っているのですが、なぜなんでしょう。一字の名字にしたのは、中国・朝鮮との外交上の利便性もあるのかな、と思いますけど、しかしなぜ「惟(これ)」氏じゃないのかな、……という素朴な疑問なのです。

例えば、藤原氏なら、中国風に名乗るときは「藤(とう)」氏ですもの。「原(げん)」でもいけますけど、あえて後ろの漢字はとらないんじゃないかな、と。

だのに、なぜ「惟」ではなく、後ろの漢字「宗」を採用したんでしょうか。

そもそも、もし本当の「惟宗」氏であれば、本姓は「秦」なんですから、そう名乗ればいいわけです。

#もっとも、その後、宗氏は「平」氏の末裔であると自称しますので、本姓の名乗りは「平」になっていきますけども……

そこで、ふと思っちゃうわけです。

この「宗」って、やっぱり「ムナカタ」氏の「ムネ」ってことなんじゃないのかな、って。

前回もお話ししましたが、1408年まで、宗氏の本拠地は宗像郡にありました。素直に考えて、やっぱり、宗氏は宗像氏の一族ですよね。

そうなると、本姓が秦氏である「惟宗」氏の名乗りもなんか怪しいな。
意味的にうまくはまるし、秦氏と宗像氏は関係も深いしって感じで名乗っちゃったのかもしれませんよね(中世ならではのあれ)。

ちなみに惟宗の「惟」の意味を調べてみますと

「……隹は鳥占(とりうら)。その神意を示すことを唯といい、神意をはかることを惟といい……」

とあります。そんな意味の言葉を「宗」の前にくっつけてると、なんだかやけに意味深で、ちょうどよすぎる感じになります。「ムナカタの神の神意をはかる」、そんな意味からしても、いい名乗りです。

妄想全開ですが、この仮説、けっこう面白い線ではないでしょうか。

(続く)

【2017宗像・対馬・壱岐旅】⑦絶海に現れる山島「対馬」。領主・宗氏とムナカタの深い関係とは……

博多はとにかくおいしいですよね!
宗像大社で濃厚な時間を過ごすことができ、すっかり満足しつつ、これからの旅がより濃ゆい旅になりそうだな…と期待に胸躍らせながら、博多に戻ります。

そして友人Kと合流。

友人Kは高校時代からの親友で、いろんなところに一緒に旅してきました。沖縄にドはまりするきっかけになった旅も、Kとの二人旅でした。面白がりセンスが近いので、普通の女友達ではなかなかオッケーしてもらえなさそうな場所でもたいがい「いいねえ!」と言ってくれます。今回も突然「対馬に行ってみたい」と言いだした私を、力強く受け止めてくれましたよ。ほんと心強いやつです。

夕ご飯は明日からの旅に備え、軽めにおうどん。「大地のうどん博多駅ちかてん」さんにてごぼてんうどんいただきました。ここのおうどんもてんぷらもめちゃくちゃ美味しかった!
武蔵野うどん圏の私としては、細かいことを言えばこしの強いうどんが好きではありますが、正直言ってうどんならなんでも好き。細かろうが柔らかかろうが、こしがあろうがなかろうが…。
博多のおうどんは、柔らかホワホワですが、こちらのおうどんは切りたて・ゆでたてで、柔らかいけどちょっとこしもあるという、なんとも言えない絶妙さ。お出汁も美味しいし、最高でした。ぜひまた行きたい。
ついつい盛り上がりたくなる博多の夜ですが、明日からの旅に備えて、早めに引き揚げて就寝しました。

絶海に突然現れる「山塊」
博多港から高速船(ジェットフォイル)に乗り、約二時間半。

途中、壱岐に一度停泊した時にも、「壱岐って大きい島だなあ」と驚いたんですけど、対馬が見えてきときに、思わず「おおおお!」と声を出してしまいました。

いきなり山がある!

そんな感じなんです。
対馬が大きな島であることは、知っていました。日本の離島としては、佐渡、奄美大島に続く第三位の大きさです。ここまで大きいと上陸してしまえば「島」感はほとんどないはずです。

そんな予想はしていたものの、実際に見ると、想像を大きく超えてきました。そこには突然「山塊」と言いたいような島が出現したのです。

「対馬は島土の89パーセントが山地」という情報も知ってはいたのですが、なんと言ったらいいんでしょう。想像以上の「山国」感だったのです。

港から中心地「厳原(いずはら)」地区を目指します。

港から見てもますます増していくこの「山」感。

変な言い方ですが、海なし県に生まれた身としては、その土地の属性が「海」なのか「山」なのかは、何かとても大きな違いがあると感じるのです。
離島というのは、圧倒的に「海」です。あの大きな佐渡島でも、やはり「海」の気配が濃厚な気がします。

しかし、この対馬は何か…ちょっと違う。気がする……。

「海」の気配がないわけはないのです。
しかし、「山」なのです。
……なんだこれ?

私たちは、そんな不思議な感覚について話し合いながら、とにかくまずはお腹を見たそう、ということで、厳原の中心にある「ふれあい処つしま」へと向かいました。

山、山言ってても、そりゃまずいただくのは、やはりお魚ですね!
地魚のお刺身の盛り合わせと、アナゴのフライの定食。お魚は奥から「スギ」「サザエ」「イカ」、「ヒラス」、「アナゴ」。どのお魚も、絶品!
アナゴのお刺身なんて初めていただきましたが、めちゃくちゃ美味しかった!ヒラメのエンガワみたいな感じ。アナゴのフライもふわっふわでもトロっと溶けちゃいます。対馬はアナゴの水揚げ量が日本一なんだそうですよ。なるほどなるほど…


「宗」氏の城下町、厳原を歩く
初日は、あまり無理せず厳原観光することになりました。お腹はいっぱいになって、パワーは充てんされたのですが、あまりにも暑い!

土地の人も、こんなに暑いことはめったにないですよ、と言ってましたが、本当に「やばい」暑さです。
ふれあい処つしまから歩いて間もなく、右手に金石城(かねいしじょう)の城壁が見えてきます。金石城は、1528年に宗氏14代・宗将盛(そうまさもり)が館を建立したことに始まり、対馬府中藩こと対馬藩第三代(宗氏22代)、宗義真(よしざね)が1669年櫓門を建立し、城郭として整備されました。天守閣はなかったようですね。
これがその櫓門!
平成2年の復元だそうですが、かっこいいですよね?!

さて、ここから5分ほど歩くと、宗氏の菩提寺である万松院があります。


意外と知らない「宗氏」の根源と宗像の関係
対馬と言えば、宗氏。
日本史で対馬が特にクローズアップされるときには、対馬の領主だった「宗氏」が必ずと言っていいほど出てきますね。しかしこの「宗氏」、意外なことに元々は対馬の人たちではありません。

宗氏は、いろいろな説があるようですが、『国史大辞典』をはじめ、おおどころの解説を読みますと、元は秦氏である惟宗(これむね)氏の末裔のように思われます。

とはいえ、その実在が確実とされている一番古い人物というのが、1274年(文永11)の元寇で戦死した資国(すけくに、助国とも)なんだそうです。思ったよりそんなに古くないんですよね。

この資国は、対馬国守護・地頭だった少弐(しょうに)氏の地頭代として、対馬の国府に居ましたが、そこに元の来襲があり(文永の役)、戦死しました。

助国の死後も、地頭代として対馬の経営にあたりましたが、南北朝末期になり、地頭代から守護職に昇格。北九州にも領地があり、また筑前国守護代も兼ねていたので、宗像郡に本拠地があったのですが、第8代の貞茂(さだしげ)が、1408年に対馬に本拠地を移したんだそうです。

おおお、ここで「宗像郡」!
出た~!!

本拠地にしていた、ということは、定かではありませんけど、宗氏はおそらくこの辺り出身の氏族と考えていいでしょう。
やっぱりいろいろ絡みますよ、ムナカタと対馬!

(続く)