法隆寺と東京藝術大学の「交流史」と「復興」/「法隆寺~祈りとかたち」展開催中

20140510現在開催中の『法隆寺~祈りとかたち』展。平日昼間に、ぽかりと時間ができたのでここぞとばかりに足をのばしました。

東京藝大美術館は、とても好きな美術館ですが、今回はどうだったかというと…

仏像好きの方はちょっと不完全燃焼かもしれません。ポスターになっている吉祥天如像と毘沙門天像をはじめ重要文化財のお像も結構来てましたけど、テーマが法隆寺の「仏像」である、と思ってきてしまうとかなり間違っちゃう感じ。

この展覧会で描かれる「ストーリー」の主題は、会場にはいればすぐにわかることなんですけど、「法隆寺と藝大の交流史~宝物修復、模写を中心に~」ってかんじなのです。

藝大の前身である東京美術学校の創設者である、岡倉天心が行った法隆寺の文化財調査のノートと、その該当品とわかるものを並べておく、とか。

法隆寺の宝物や仏像の複製を通じて、学び考えていた明治の芸術家たちの「学びの庭」たる「法隆寺」という視点。

そして、法隆寺の金堂の模写事業、そして金堂が燃えてしまった後の復元作業での交流、などなど、そのストーリーの中で法隆寺の宝物・仏像が置かれている、という風な感じですね。

パンフレットやポスターでは、そこのところはあまり強調されていませんので、行ってみて「あ、そうなんすか?」とちょっと驚く、という…

そこで頭を切り替えてみると、大変面白い展覧会だな、と思います。

特に、金堂の壁画復元に関しては、とても興味深かったです。会場の前の建物では『別品の祈り』と題された展示も無料で公開されてますので、ぜひ合わせてごらんください。ここでは在りし日の壁画が原寸で再現されています。これが本当に燃えてなかったらなあ、と思わずため息ついちゃいました。本当に美しい最高の仏画なんです。

こちらでその復元された仏壁画を拝見していて、そこで、はたと気づきました。

実はこの展示の表題には「東日本大震災復興記念・新潟中越地震復興10年」と書かれており、展示会場の冒頭で、まず「その復興を祈念して」という思いが書かれていました。そういったことと、金堂の被災・修復はオーバーラップするところがありますよね。そういう意味もあったんじゃないのかな。今度被災した文化財の修復などでも大きな役割を果たす藝大の覚悟表明、みたいな…。そういうことなんじゃないのかな。

…いやはや。いろいろ考えさせられる展示でした。
ぜひ足を運んでみてください!
『法隆寺~祈りとかたち』@東京藝術大学大学美術館(6/22まで)
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2014/horyuji/horyuji_ja.htm

『別品の祈り』@東京藝術大学大学美術館(6/22まで)
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2014/kondou/kondou_ja.htm

【山梨旅】武田氏ゆかりのお寺で仏像を観る②大善寺さんの「葡萄薬師」その弐

葡萄薬師はもともとは葡萄を持ってなかった??
「葡萄薬師」突然の秘仏化に動揺しながらも、ヨレヨレしつつ、鎌倉時代の日光月光さんと、十二神将さんを拝観します。

こちらの日光月光さんは鎌倉時代の、関東界隈の香りを強く感じるお顔立ちですね。鎌倉にあります覚園寺さんの薬師三尊さんの両脇侍を、ふと思い浮かべてしまう感じ。全体的にキリッとした強い表情。口元はキュッと引き絞って少々厳しい。切れ長の目には玉眼が入っています。時代も結構近いんじゃないかな…

さて、そんなあてずっぽうばかりではあれですし、もうちょっと詳しく知りたいと思い、朱印をしていただく間に、こんな本を購入してみました。

大善寺図録なぜ、表紙が十二神将のクビラ大将なのか、ちょっと謎ですが、立派な本ですよ。

さて、ちょっと本を読み込みますと、大変意外なことが書かれていました!

現在、葡萄薬師と呼ばれるご本尊さんは、お寺のパンフレットなど見ますと、左手に葡萄の房を乗せ、右手は降魔印(触地印)で、膝の前に手を伏せ人差し指を下に伸ばして地面に触れるような感じになっています。
#お寺のHPをご覧いただくと、ご本尊の写真をみることができます→HP

しかし、この形になったのは昭和5年の修理の時だったというのです。それまでは、右手は上向きで、左手も上向きであり現在は失われていますが薬壺(やっこ)を乗せていたと考えられる、と書かれています。

「鎌倉時代初頭頃仏教図像集である『覚禅抄(かくぜんしょう)』には、様々な薬師如来の姿を説くが、中に左手に宝印、右手に葡萄を持つ薬師のあることを記す。」(P34から引用)

宝印、というのは宝珠のことでしょうか。宝印というと仏を象徴する文字や真言のことを指すので、立体物ではないような…。

最も一般的な薬師さんの持ち物は、薬壺なので、宝珠というのでも珍しいですけど、葡萄と宝珠の組み合わせに何か意味があるのかな??

「葡萄は千手観音の持物(じぶつ)の一つとするように、古くから仏教とかかわりのある果実である。本像には、往古は葡萄を持っていたという伝承があるが、或は、造立当時の右手には葡萄を持っていたかもしれない」(P34から引用)

なるほど、つまり現在葡萄を持っているのは、割と最近から乗せるようになったということなのかな?文化財指定になっている写真を見ますと、確かに左手には葡萄のってないです。が、パンフレットやHP のお像は葡萄をのせてます。

つまりこんなかんじ?

造立当時→左手に宝印、右手に葡萄
昭和5年以前→左手に薬壺、右手は??
昭和5年以降→左手に葡萄、右手は下向きにして降魔印に変更

印相(仏さんの手の形。いろんな意味があります)って、けっこう変えちゃうもんなんですね。

紆余曲折てんこ盛りのお寺の歴史とお寺の縁起
変えちゃう、というかそれもごもっとも、と思いますのが、この本に記されているお寺さんの歴史の複雑さです。

創建された時期についても、説がいくつかあるようなんですが、ものすごく端折ってしまいますと、非常に大きなお寺さんですので、塔頭がたくさんあったわけですね。その中で中心になる塔頭も、歴史とともに変遷してきてるんですけど、そのためにいろんな歴史がごちゃまぜになってわかりにくくなってしまってる、って感じですね。

また、有名なこのお寺の縁起、行基(ぎょうき)さんがこの辺りで行をしていたところ、夢の中に葡萄を持った薬師如来が現れて…、というお話は、どうもあくまでも伝承といえそうです。鎌倉時代に民衆の間に、行基信仰が流行したのですが、おそらくその時に由緒として組み込まれたって感じですね。で、江戸時代に定着した、と。

これだけ長い歴史のあるお寺さんですから、そりゃもういろいろありますよね。そりゃそうだ。
大善寺

そんな長い歴史のなかでも、人々の必死の努力で守られてきた本堂や仏像が、いかに貴重か、ということですよね。

「行基さんが葡萄を持った薬師如来さんを夢で見て、その姿をお像に彫ってお寺を作り、薬園を作って民衆を救った。法薬である葡萄の栽培方法を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりと伝わる」

というこの縁起。何とも言えずいいお話ですよ。

土地の人に愛され大切に守られていく中で、このような縁起ができ伝えられてきたんだろうなあ。学術的にはそうじゃないかもしれなくても、やはりお寺の縁起はこのお話がふさわしいな、なんて思いました。

さて、大善寺はまた5年後にも来なくてならなくなってしまいましたが――何度でも足を運ぶ価値のあるお寺さんですからね。また来ますよ!――、今日は次のお寺へそろそろ向かわないと。あと3つのお寺さんを巡るつもりなので時間に余裕がありません。

そんなわけで。

大善寺の次には、塩山駅ちかくにある「向嶽寺」さんへと向かいます。

(続く)

大善寺
http://katsunuma.ne.jp/~daizenji/index.html

【山梨旅】武田氏ゆかりのお寺で仏像を観る①大善寺さんの「葡萄薬師」

「葡萄薬師」で有名な名刹・大善寺からスタート!
中村彰彦先生の連載を担当させていただくようになって、こうなったらどうあっても一度現地を訪れないと始まらない、…と思うようになり、先週末その願いをかなえることができました。

山梨を旅すると決めたとき、まず頭に浮かんだのが、「大善寺」さんでした。
というのも、以前私が編集させていただいた本『感じる・調べる・もっと近づく 仏像の本』(西山厚監修:仏像ガール著)の薬師如来をご紹介するページで、大善寺さんの有名なお像のお写真を貸していただいたんですね。その時に「かわいらしい薬師三尊さんだなあ」と感動した、という記憶があったからなのでした。

大善寺

また、中村先生の「疾風に折れぬ花あり」にも「大善寺」は登場します(2014年3月号)。
織田軍に追い立てられた武田勝頼が、愚かにも重臣小山田信茂の勧めを受け、本拠地の新府城を捨てて、信茂の本拠地・都留郡(つるごおり)を目指して脱出したのですが、その途上でこの大善寺に一泊しているのです。

この大善寺は、創建は9世紀ごろと伝わりますが、鎌倉時代のころから武田家と縁の深いお寺です。もともと、郡内(ぐんない)と呼ばれた都留郡と、国中(くになか)と呼ばれた甲州盆地とを結ぶ道の要衝にあり、軍事的にも重要な場所でした。

なので、武田信玄の叔父・信友はこの大善寺の境内を削って館を構えたようですし、信玄自身も、台風で被害を受けた大善寺の修繕を外護し、寺領も安堵しました。

また、大善寺には「理慶尼(りけいに)」という尼さんがいました。この人は信友の孫で、信玄からみると、従弟の娘にあたる人です。一説には勝頼の乳母も務めていたことがあったそうで、勝頼が逃げてきたときに、本堂にかくまった、という伝承があります。この人が書いた『理慶尼記』は別名「武田滅亡記」と呼ばれるもので、東寺の様子を知らせてくれる貴重な資料として、大善寺に今も所蔵されています。

仏像だけじゃなく、建物もすごい!
…ということで、武田家ともとてもご縁の深いお寺さんですから、歴史好きの皆さんにもたまらないと思いますが、仏像好きにもたまらないお寺さんです。

こちらでは何と言っても有名なのは、ご本尊の薬師三尊像。ほぼ創設当時のお像で、平安時代初期までさかのぼる名像(国指定重要文化財)です。
また、このお像のとてもユニークな点は、お薬師さんが葡萄の房を持っているということ。だから「葡萄薬師」と呼ばれるんですね。葡萄栽培とワイン醸造で高名な、勝沼町にある名刹にふさわしいお姿ですね!
大善寺どっしりとした山門をくぐり階段を上ると、本堂(薬師堂)が見えてきます。この本堂は鎌倉時代の建築で国宝。のびやかで気品あふれる佇まいが素晴らしい!!

大善寺

お寺のかたから後でうかがったところによりますと、東日本大震災でも被害がなく、また今年の大雪の際にも、こちらの本堂だけはびくともしなかったそうです。鎌倉時代の宮大工さんの腕って、本当にすごいですよね。

悲報!!葡萄薬師さんがいつの間にか「秘仏」になってた!!
さて、早速本堂に入りますと…

あれ?
嫌な予感…

なんか、本堂の中のお厨子に写真が貼られちゃってるけど!??

「ああ、すみませんねえ、数年前から5年に一度ご開帳させていただくように変更したんですよ。以前は毎日拝観していただけたんですけどね」

……呆然とする私に、衝撃の一言!

「昨年ご開帳したので、次回は30年になります。お客さん若いからまだまだ大丈夫。また来てくださいよ」

の~~~!!!

思わず白目むいたかもしれません。

同行の友人Kは、「い、いく??大丈夫?」と心配してくれましたが、お厨子の外にある12神将と鎌倉時代の日光・月光菩薩さんは拝観できるので、どうにか持ちこたえました。

ああああ、でも観たかったなあ。

こちらの三尊像は、本当にかわゆらしくてねえ。

ご本尊のお薬師さんが優しいお顔で、手に葡萄の房を乗せてるさまもかわゆらしいですが、特に、両脇時の手のかたちが可愛いのです。ピングーの手みたいな、というかなんというか。先がピョンと反っているんです。ううむ、ちょっと下手な絵で描いてみますと…

大善寺

普通は手のひらを前側にひらいているかたち(印相)や、もう一方の手で持っている蓮華の茎の下部分を持っていたり、そんなのが多いかなと思うんですけど、ここまで反り返ってるのは見たことないですね。「おしゃまさん」みたいなポーズに見えます。お顔も少女のようにかわいいので、見ていると思わずにっこりしてしまうようなお像です。

…ってここまで語ってますけど、結局本物観られてないですけどね。写真で見てここまで語ってますけどね(涙)。

(続く)