2017年は「慶派イヤー!」③東大寺大勧進・重源と「アン阿弥陀仏」

希代のカリスマ・俊乗房重源さん
快慶さんを語るときに、絶対にはずせない重要人物に「俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)」さんという傑僧がいます。快慶さんを語るときに…だけではないですね。運慶さんもそうですし、石造美術系でいえば宋人石工・伊行末(いぎょうまつ)もそう、宋人鋳物師・陳和卿(ちんなけい)もそう。
鎌倉時代初頭は各分野において、その後の日本文化の礎となるエポックメイキング的なすごい作品がつくられましたが、そのほとんどが重源さんの仕事、「東大寺再興」に関わるもの(関わった人々によるもの)といえるでしょう。

源平の戦いの中、東大寺は平家に急襲され、焼け落ちてしまいました。その翌年、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の推挙により、重源は東大寺再興の責任者になります。この時すでに61歳だったそうですから、当時としては十分に高齢者でしょう。しかし、重源さんはそこから、苦節22年。83歳にして見事に東大寺大仏殿を再興しました。

とにかく、詳細は端折りますが、スーパーすごいお坊さまです。(重源さんについては、こちらもご参照ください!

ものすごいカリスマであった重源さんは「南無阿弥陀仏」と号した阿弥陀信仰者でした。そんな彼に帰依した同行衆に、重源さんは「阿弥陀仏」号を与えました。

「アン阿弥陀仏」という名乗り
快慶にも「アン阿弥陀仏」という号を与えたのですが、それからしても、快慶は単に仏師としてではなく、東大寺再興を目指す勧進集団に加わった同行衆の一人だったということが分かります。

快慶は、仏像の内部などに銘を記しているのですが、

1192年以降は、「巧匠 アン阿弥陀仏」と記銘しているそうです。
上の写真は、「快慶」展の図録の裏側ですが、「アン」のところは、梵字なんですね。この梵字を一字で「アン」と読みます。

ちなみにこの梵字、どんな意味があるんだろ、と思いまして、『梵字必携』児玉義隆著(朱鷺書房)を開いてみますと…

おおおお、これですね!?
そして…

んんん?
漢字音訳が「闇」!?
字義が「辺際」!?

音訳は、音をうつしているはずですので、あえて「闇」という言葉の意味はスルーしますが、「辺際」を『仏教語大辞典』(小学館)で調べてみますと。「はて。きわ。時間・空間・程度など、これ以上ないという限界」という意味だ、とありました。

快慶のスタイルの阿弥陀仏を「安阿弥様(あんなみよう)」というように、漢字で書くときには「安」という字をあてるのを見てきました。なので、「アン」という梵字そのものの意味を見てみると、びっくりするくらい印象が違って驚いちゃいました。

重源さんが梵字の「アン」を冠した「アン阿弥陀仏」という号を快慶さんに与えたということ、それは快慶さんという人の人となりを示しているようにも思えますし、重源さんが快慶さんに期待した役割を意味してるんじゃないか、とそう思わずにはいられません。

(続く)

2017年は「慶派イヤー」!②快慶は、まさに「祈り」の人

運慶と快慶、どちらが好きですか

以前、N山先生の講演会を聴講した際のこと。N山先生が、
「皆さんは運慶と快慶、どちらが好きですか? 好きなほうに手を上げてみてください」
と質問されました。

……こ、これは!
難しい質問ですよ…!!

(これだけすごい二人の仏師、正直言ってどちらがいいとか好きとか、そういう次元じゃない。ううう、どうしよう、でも私が仏像を大好きになったきっかけは、願成就院の運慶仏だし、うううううう……)

ほんの一瞬だと思いますが、こんなに悩むことはないってくらい悩んで、結局、私は「運慶」に手を上げました。

一般的風潮として、運慶を天才と呼び、いわばスーパースター的扱いをします。一方、快慶は秀才的な、というかおとなしい感じの作風で捉えることが多い気がするので、(あくまでも運慶と比較したらですけど)少々影が薄い印象です。ですから、この時も、きっと運慶に手を上げる人が多いだろう、と思ってたんです。

ところが。
なんと、その場にいた人のおそらく7割が、「快慶」に手を上げたのでした。

私は、心底びっくりしてしまいました。

――本を作る人間としても、これは看過できない結果だぞ。

仏像の本をつくるときに、慶派といったらまず運慶の仏像を、と考えるのが普通の編集者でしょう。でもしかし。それは思い込みだったのかもしれない…

快慶は「祈りの人」

講演会の後、N山先生にこの驚きをお話すると、先生はにっこりと微笑まれて、

「快慶の仏像は、その後多くの人が真似をしました。今では『安阿弥様(あんなみよう)』と呼ばれるほど、ひとつの様式となっていった。それだけ多くの人に愛されたということじゃないかな」

あ。そっか~~!
そうですよね!?

運慶の仏像は、唯一無二。その作風を継承しようとしても、肉薄するようなレベルにまでは誰もできなかったんだろう……そう思っていましたが、それを違う角度から見ると、継承しなかったともとれるんですね。
人々の好みは、むしろ快慶の仏像にあった。そうもとれるわけです。

「快慶という人は、祈りの人だから。その「祈り」が、多くの人に共感されたんでしょう」

なるほど、そうですよね。
快慶の仏像は、優しい。
それは、快慶が阿弥陀信仰の篤い信者であったことと関係しています。

阿弥陀如来への篤い信仰
運慶・快慶が生きた鎌倉時代初期は、正に怒涛の時代でした。
院政、そして平家の繁栄、源平の戦い……、そして平家が滅び、源氏・北条氏の時代になりました。
世の中には戦乱だけでなく、飢饉や災害も相次ぎ、あまりに多くの命が失われてしまいました。そんな中、人々のこころをとらえたのは「浄土信仰」、「阿弥陀信仰」だったのです。

「この世で悲しい目に遭ってひどいことになっても、阿弥陀さんに帰依すれば、極楽浄土へ迎えてくれる」

愛する人が死んでいくのに何もできない、不条理な理由で簡単に死んでしまう、そんな現実を前に、人々は、魂の救済をこころから願い、阿弥陀如来に祈ったのです。

快慶が、どんな家に生まれ、なぜ仏師になったのかなどは、わかっていないようなのですが、祈り続けなくてはいられないような深い理由があったのかもしれません。

(続く)

2017年は「慶派イヤー」!①『快慶』展@奈良国立博物館(6/4まで開催中)と『運慶』展@東京国立博物館(9/26-11/26)を見逃すな!

「今年は、慶派イヤーだね」

今年は、年賀状でそんな言葉を書いてくださった先生がいらっしゃいましたが、仏像ファンにとってはまさにたまらない「慶派イヤー」、到来中ですね!

春は奈良博さんで「快慶」展。
秋は東博さんで「運慶」展。

昨年作成されたチラシは、裏表でその二つを印刷されていて、そりゃもうかっこよくて、ワクワクしちゃいました。
どちらが裏表、というわけではありませんが、一面はこの快慶展。そして…
もう一面は、「運慶」展、と!

いずれを飾るお像のセレクトも、むむむむ~、さすが、そうですよねえ、というお像です。
快慶さんならではのいかにも「安阿弥様(あんなみよう)」の阿弥陀如来立像@遣迎院。
そして、
あまりに有名な運慶さんの無着(むちゃく)菩薩立像@興福寺。
か~!たまりませんよね!

……そしてあっという間に2017年。
奈良博さんの「快慶」展が始まってしまいました。
会期はあまり長くないですよね。もう行かれましたでしょうか。油断してると見損ねてしまう!と焦りながらもなかなか日程が定まらず、ひやひやしましたが、私も先週ようやく拝見することができました。

「慶派」とは?

ところで、改めて「慶派」とは何かについて、少しおさらいしておきましょう!
すごくすごくざっくり言ってしまえば、鎌倉時代初頭に活躍した奈良仏師・康慶(こうけい)を始まりとして活躍した一派を言います。
運慶は、康慶の実子で弟子、快慶も康慶の弟子の一人なんですね。

康慶は、奈良仏師の中でも傍系でしたが、南都焼討(治承・寿永の乱)で燃えてしまった東大寺・興福寺の復興造像を、息子や弟子たちとともに請負い、大活躍。幕府要人の仕事もを多く手がけました。
そして、さらに運慶や快慶は、その仕事をさらに発展させ、それぞれが、より本質的でかつ斬新な彫刻様式を確立しました。

それにしても鎌倉時代というのは、すごい時代です。

動乱の時代そしてその後の安定期――こういう時代の転換期には、あらゆる分野で天才が出現するんですね。
仏教も、今も日本仏教の多数を占める多くの宗派がこの時期に誕生しました。この時代の凄い人を並べてみると、「え?この人とこの人が同時期に生きてたなんて、いったいどんなすごい時代なの?」と驚いてしまいます。鎌倉時代とはそんなすごい時代です。

そういう意味でも、仏像造像分野もその例にもれません。

「運慶」と「快慶」。

この二人の巨人が同じ時代を生きた、しかも同じ師匠をいただき、さらに一緒に東大寺や興福寺の造像をしたなんて、ほんとすごいことです。

立場から言うと、運慶のほうが師匠の息子で、跡を継いでますので、快慶は一歩下がっている感じではありますが、それはそれ。
二人の巨人が目指す方向ははっきり違いますから。

今回のこの二つの展覧会は、まさにそのことを明らかにする、という意図もあったのではないかと思います。

(つづく)