仏教美術の源流に触れる!/「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏」展@東京国立博物館(~5/17まで)

東京国立博物館表慶館にて行われている「インドの仏」展に行ってまいりました~!

表慶館と言われてもピンとこない方も多いかもしれませんが、本館の左側にあるこの美しい西洋建築でございますよ。

大正天皇(当時皇太子)のご成婚を祝して建築されたこちらは、日本初の本格的な美術館建築だそうで、重要文化財です。関東大震災にあっても倒壊しなかったといいますから、きらびやかなだけでなくとてもしっかりとした造りなんでしょうね。

好みはともかく、日本ではなかなかお目にかからないバロック様式の建築物です。貴重ですね。
20150421-2

 

思い起こしても、なかなかこちらで展覧会というのは開催されていなかったと思います。私もそこそこトーハクさんにお邪魔してますが、昔、スリランカの仏像を招へいした時、メディア向けの説明会か何かでこちらに入ったことがあった、かな?という程度。

今回は全面的に使って、インドの仏像を見せていただけるということで、建物を見るという意味でもとても楽しみでした。

今回の展示で、とにかく印象深かったのは、非常に良質な初期仏教のレリーフや仏像を一堂にみられたことです。

すごくざっくり言ってしまえば、仏陀こと、ゴータマ・シッダールタが亡くなってからしばらくは、仏陀を「人」で表現することはなされませんでした。

最初期は、仏陀の遺骨を納めるストゥーパ(塔)を建立することで表現されました。

20150423-1

(写真、左は「法輪の礼拝」、右は「菩提樹の礼拝」。法輪と菩提樹は仏陀を象徴的に表している)

そして、その後、ストゥーパとその周囲を荘厳(しょうごん)するために、周囲に彫刻がなされるようになったのですが、そこに彫刻されたのは本生話(釈迦の前世譚)、仏殿(釈迦の生涯)といった教化的なもので、仏陀そのものは仏足石、法輪といった象徴的なもので表現されていました。

そして、仏陀が亡くなってから500年ほど経ってから、ほとんど同時期に人体表現がされるようになります。AD1世紀ごろ、マトゥラー(インド北部)とガンダーラ(アフガニスタン東部からパキスタン北西部)です。

両方ともイラン系王朝「クシャーン朝」の支配下にありました。クシャーン朝は仏教を篤く庇護していたんですね。

20150423-2こちらの見開きだと分かりやすいですね。(図録P56-57より引用)

左の仏像がマトゥラー、右側がガンダーラのもの。日本では圧倒的にガンダーラが有名ですが、図録で見る限り左の仏像はAD1世紀ごろで、ガンダーラの仏像よりも1世紀ほど先行してますね。
クシャーン朝と言えば、仏教を庇護したカニシカ王が有名ですが、マトゥラーの仏像が出現したのは、彼の在位より前ということになります。ほほ~~。

こんなことを書きながら世界史の地図なんかを見直したりしてましたら、無性になつかし楽しい。ちょっと忘れがちでしたけど、私高校時代、世界史専攻だったんですよ。だから日本史はあんましちゃんとやってない。日本史は趣味でやってたんだよなあ。だからどうしても史料なんかを読めないんですよね。

とと、話しを戻しますけれども…。

このような初期仏教の流れをつぶさに見つつ、14世紀くらいまでの大きな流れを見ることができます。一部ミャンマーの仏像は16~19世紀のものが出ていますが、もうちょっと古いものはなかったのかな~。コルカタ博物館蔵、ということで仕方がないかな。

そういう意味では、スリランカの早い時期の仏像も少し出てるとよかったかな~。
いや、だからコルカタ博物館蔵なんだから仕方ないですよね。

と、私の個人的希望はともかく、とても面白い展覧会でした!

ぜひ、足を運んでみてくださいね。

東京国立博物館
コルカタ・インド博物館蔵 インドの仏展
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1701

日本史上最大のカリスマ「空海」を考察する「神仏探偵」の力作、新装版で登場!『弘法大師 空海読本』/本田不二雄著(原書房)

尊敬してやまない大先輩、本田不二雄さんのご本『弘法大師 空海読本』が、新装版で登場!!

高野山開創1200年ということで、様々な行事が開催され、また本もたくさん出版されておりますけども、私はまずこの本田さんの力作を皆さんに手にとっていただきたい、と拳を振り上げたい!!!

実は、本書をお送りいただいてから、バタバタしてしまい、なかなかじっくりと読む時間がとれずにいたのですが、今日はようやく時間をとることができるので、満を持してページを開きました。

20150411

すると、止まらない止まらない!!

まず、何が面白いって、本田さんが取材をされてときの現地の空気感がダイレクトに漂ってくるようなかんじがすること。ですから、内容はしっかりとした、時には難しい内容なのですけども、たくさんの写真と図版とともに、スルスルと読み進めてていくことができます。

また、伝承も片方向だけでなく、あらゆる角度から提示されてますし、仏教方向から、プリミティブな信仰(神道)方向から、かなり踏みこんで想像し、推理されています。さすが「神仏探偵」本田さんならではです。

実は、まだ「第一章 神人誕生」を拝読したまでのところで、この記事を書いております。今日これからさらに読み進めるつもりです。

ぜひ、空海や密教、または宗教に興味がなくても、日本史上最大の「カリスマ」の一人である空海さんに興味がある方、ぜひ手に取ってみてくださいね~!

(むとう)

【関西旅2015】③なぜご本尊が「十一面観音」、「水」が重要、そして若狭(小浜)から送られてくるのか。構成要素で妄想してみると…

なぜ『お水取り』が重要とされるのか

素人の私がいくら頭をひねっても、その真相などわかる訳もありませんが、しかし私なりに妄想してみたいと思います。

まず、

1.この行を始めたのが「実忠」さんである、ということ。

2.二月堂のご本尊が十一面観音であるということ。

3.実忠さんがこの行事を始めようと思ったきっかけのお話し【笠置山の穴(龍穴)に入ると、そこは兜率天。天人たちが十一面観音悔過を行っているのをみて、人間界でもこの行を行いたい、と切望し、……】にあるように、どこかほかで行われていた優れた行事を実忠さんがもたらした、ということ。

4.重要なのが「水」であるということ。そしてその水は若狭から送られる、ということ。

このあたりにあるキーワードを拾って、ちょっと妄想してみましょうか。


実忠さんはインド人? 国際色豊かだった古代日本

まず1.の「実忠」さんという人、なんですが。

私は何度も若狭小浜を訪ねてますので、ごくごく普通にこの実忠さんという人が、インド人であった、と思っておりました。小浜市のガイドブックや、神宮寺関係のパンフレットにはそのように書かれていますし、そもそも東大寺の開山である良弁(ろうべん)さんも小浜市出身だ、とされています。

しかし、国史大辞典や東大寺のサイトなど確認しますと、そのようなことは一切書かれていません。
国史大辞典によりますと、良弁僧正は近江国か相模国の人だ、と言い、実忠さんは出自がわからない、としています。

ほかの辞書でも、ほとんど同じ。おそらくこの説が通説なんでしょう。
ですので、小浜に残る「良弁さんの出身は小浜」「実忠さんはインド人」というのは、伝説、ということになります。

しかし、単に伝説と言って片付けてしまうのもちょっともったいないようなお話しです。

意外と知られていないかもしれませんが、この時代、外国の人がたくさん来日していました。有名なのは、東大寺の開眼供養を行った菩提僊那(ぼだいせんな)僧正でしょうか。彼はバラモン階級出身のインド人仏僧で、請われて来日し、大安寺に入り、日本仏教の興隆に尽くしてくれました。菩提僊那と一緒に、渡日してきた僧、仏哲はベトナム出身、道せんは唐の出身です。想像以上に国際色豊かだったのが当時の日本なんです。

そうした背景を考えますと、実忠さんが、インド人でも不自然ではありません。
また一説にはペルシャ人(イラン)だったともいわれるそうですが、それも不自然ではありません。当時ペルシャ人が来日し、聖武天皇に拝謁している記録も残っているからです(『続日本紀』)。

ちなみにペルシャ人は当時、「波斯(はし)人」と呼ばれていました。このこともちょっと記憶しておいてください。

十一面観音さんと言えば「水」という連想

そして次に「ご本尊が十一面観音である」、ということです。

仏像好きな人であればピンと来ると思います。頭の中にこんな連想が浮かぶ人は多いんじゃないでしょうか。

【十一面観音さんがご本尊→水→北陸・泰澄(たいちょう)・白山(はくさん)信仰】

よく知られた話ですが、十一面観音さんは「水」とたいへん深いかかわりがあります。もともとインドで天候や雨を支配した神がベースになっている、ということもあるのでしょうか、十一面観音さんがおられるところの近くには、たいてい重要な水源、川、湖などがあります。

また十一面さんといえば、泰澄の白山信仰でしょう。

白山は、富山にある霊峰ですが、この山を開いたのが泰澄さん。夢の中に現れた貴女(白山神)の呼びかけにより白山へ登拝しますが、頂上で、白山神の本地仏(ほんじぶつ)、十一面観音が出現します。

こうして、「白山信仰」は泰澄とその弟子によって全国に広く伝わっていくのですが、この泰澄さん、東大寺関係者とも強い関係があります。

まず、聖武天皇。
聖武天皇の前の天皇で聖武天皇の叔母にあたる元正天皇という女帝がいたのですが、この方の病を泰澄さんが祈祷で平癒させたため、女帝の篤い信頼と帰依を受けます。

そして行基。
東大寺創設の功労者である行基さんは、泰澄さんを訪ね、ともに白山に登り語り合います。哲学者・梅原猛さんは、この時、行基さんは泰澄さんより「本地垂迹」の考え方を学び、また仏を木に彫ることを学んだのではないか、と推察しておられます。

そして「お水送り」の舞台である小浜。
小浜には、大変有名な美しい十一面観音さんが居られます。羽賀寺というところのご本尊ですが、こちらは元正帝のお姿を映したもの、と言われています。そしてこのお寺は元正帝の勅願により、行基さんが創設した、と伝わっているのです。

20150322-1

(こちらが羽賀寺の十一面観音さん。何となく日本人離れしてこってりした顔立ちの美人ですよね?)

羽賀寺のある場所は、お水を送る舞台になる神宮寺と鵜瀬からは結構離れてますが、この小浜という地域全体が何となく、聖武天皇ファミリーと近しい間柄にあるような感じをうけます。

つまり、ご本尊が十一面観音さんである、ということは、「水」と縁が深い、とまず連想されますし、その水が聖武帝ファミリーとも何かと縁のある小浜から送られてくる、ということは何となくあり得る話、という感じがしてくるわけです。 必然性と申しますか…

(続く)