【2016沖縄旅】①「琉球」と「沖縄」、二つの呼び方、どちらが古い?

告白。沖縄への思い
久しぶりに大好きな沖縄に行ってきました!
今回の旅は、15年余り通い続けた中でも、ちょっと特別な旅だったように思います。

大好きな沖縄を、あくまでも「プライベートな面での心のオアシス」として保存しておきたかった私は、仕事で沖縄の本をつくったことはほとんどありません。例外的に一冊だけ、沖縄味噌のレシピ本を作ったことがあるだけです。
「仕事」はシビアな世界ですから、大事な沖縄をそこに絡ませたくない、とそんな気持ちがあったんですね。

しかし、そもそものことを考えてみると、私が沖縄に通うきっかけになったのは、間違いなく本来私が追い求めてやまないもの、『歴史と文化』ど真ん中への興味からだったのです。

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〔写真:ナカグスク)

まず、最初に度肝を抜かれたのは、「中城(ナカグスク)」の美しい石積みでした。全く予備知識がないまま、訪れた中城にすっかりはまってしまい、書店に直行。沖縄には「グスク」という城郭と聖地を足して二で割ったような、本州にはない素晴らしい遺跡があることを知りました。
そして御嶽(うたき)、ユタに代表されるような、濃厚な宗教世界に圧倒されました。

そして音楽。私はもともとソウルミュージックやロックが大好きでしたので、沖縄の音楽シーンは堪らなく魅力的でしたし、また、民謡も大好きになり、結局登川流で民謡を習うまでになりました。
さらに、もちろんもっとも魅了されたのは、沖縄に住む人たちでした。
大らかで茶目っけたっぷり。うちなーぐち(琉球語)がまたたまらなくいいかんじ。
通ううちに、尊敬するミュージシャンのねえねえ方に知り合うことができ、それでかわいがってもらうようになったもんだから、もう居心地良いったらないわけです。

いや~、ほんとどっぷりですよ!

ところが、今回の旅で、一つ自分の中で明らかに変化したことがありました。

「大事だからこそ、仕事でも、沖縄のことを書いたりしてもいいのではないかしら」

ここのところです。
今の仕事も、好きでやっていることです。いつも余裕なしでキュウキュウ言ってますけど、しかし、やはり好きでやっている仕事です。そのど真ん中で、もっと好きな沖縄に関して発言してもいいのではないかしら、と急に思うようになったのでした。

「琉球」と「沖縄」という呼び方

そんなわけで、仕事とはいいがたいですが、本HPでもちょっとまじめにトピックスを書き出していきたいと思います。
まずは、「琉球」と「沖縄」という呼び方について。意外となんとなーくで使っていますが、この呼称、いったいどういう違いがあるんでしょうか。

なんとなく、「琉球」のほうが本来の呼び方であって、「沖縄」は、いわゆる明治政府による「琉球処分」により、「沖縄県」になって以降の名称、と言った印象が強い気がします。それはそれで、間違いではないのですが、「沖縄」という名前も古くて、とても大切な呼称である、ということは意外と認識されていないような気がします。

まず、「琉球」ですが文献に出てくるのはかなり古いのですね。

636年『隋書』の「東夷伝」に「流求」とあるのが、最初です。その後、14世紀後半に明国によって「琉球」と表記すると決められ、それに周辺諸国が倣った、ということのようですね。

一方、「沖縄(おきなわ)」が文献に登場するのは779年、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』に、「阿児奈波嶋」とあるのが最初のようです。

鑑真さんは、あの唐招提寺を創設した偉大なるお坊様で、皆さんよくご存じと思いますが、何と沖縄に漂着していたんですね!

『日本歴史地名大系』によりますと……

「同書によると天宝一二歳(七五三)一一月一六日に四船で蘇州の黄泗浦を出発し、同月二一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波嶋」に到着したとある」

とあります。

その読み方は、「アコナワ」「アジナワ」「アルナワ」と、諸説あるそうなのですが、歴史学者・東恩納寛惇さんは「島民の語音ウチナワを表記したものであろう」と『南島風土記』でのべておられるとのことで、つまり、もともとの住人は「ウチナワ」と言っていたということだと思われるのですね。

国際語としての名称が「琉球」

こういう現象は、現在でもたくさんありますよね。

たとえば、私たちは日本人で、自分の国のことを「二ホン」「ニッポン」と呼びますが、海外では自ら「ジャパン」と言いますね。それと同じ。

それと、数年前に、ミャンマーの友人に、軍事政権によって国名を変更されてしまったのは、いやじゃない?と聞いたことがあるんですけど、
「ちがうんだよ、ブーマと同じくミャンマーという国名も古い名前で、国内ではそう呼ばれてたから、政府が変更したわけじゃない。国際的な呼び方もミャンマーにするって宣言しただけだから、別に違和感ないんだよ」

へえ、そうなんだ!と驚いたことがありますが、あ、そういや日本だって二つの名前があるもんな~、いや、二つの名前どころか、中国語だとリーベンだし、タイ語だとイーブンか…いろいろありますね。

沖縄もそういうことと言えそうですね。

地元の人たちは、自分たちのことを「ウチナワ」と呼び、対外的には「琉球」と呼んだ。「琉球」という名前は外側から与えられた名前ですが、それはそれでいろんな国の人が分かってくれるなら便利でいいかな、という感じだったかもしれません。

そして、「沖縄」という漢字、これも当て字となるわけですが、これは、『国史大辞典』によると、

『「オキナワ」の宛字のうち、『おもろさうし』の「おにきや」は古い呼称とみられるが、ほかに悪鬼納・倭急拿・屋其惹などがある。「おきなは」と最初に表記したのは長門本『平家物語』で、初めて「沖縄」の文字を使用したのは新井白石の『南島志』である。』

とあります。こちらも、歴史がありますね。「おきなは」の表記は、13世紀初頭の平家物語にはもう出てくるんですものね。新井白石の『南国志』は1719年に書かれてますから、これも古いです。
(とはいえ、いっぽうでこの「沖縄」という呼称が日本サイドからの呼称として、広く一般的だったかと言えば、ちょっと疑問ですね。「琉球使節団」のように、「琉球」と呼ぶのが一般的だったように思われます…)

そう考えますと、琉球処分の後【沖縄県】としたのは、あながちおかしなことではない気がします。「ウチナワ」転じての「沖縄」であれば、です。
【琉球県】としなかったのはなぜか、琉球人のアイデンティティを奪うためか?!と鼻息を荒くする必要はなかったのかもしれません(私はちょっと鼻息荒くしてましたが;;)。
どちらも、うちなーの人々にとって、親しんできたであろう国名なのではないかと思うからです。

とはいえ。様々な呼び方の中で、やはり私は「うちなー」が最も好きです。

沖縄の友人や、師匠が語る言葉の中に出てくる「うちなー」という言葉が好きで、私もこの呼び方を好んでいましたが、この優しい音が沖縄の本質に近いような気がしていたからかもしれません。ちょっと後付けですけども^^;。

(むとう)

【2015青森旅】④やっぱり、かっこいい。縄文デザイン!!

竪穴式住居。

いいですなあ。

思い起こせば、私は小学生時分、縄文人生活にあこがれる少女でございました。
昔住んでいた家が、縄文時代の住居跡の上だったので、ちょっと掘ると縄文時代の土器のかけらが結構出てくるので、その縄目文様や造形を見て、シンプルに「すごいかっこいいなあ」と思ったんですよね。

それで、社会科の図録なんかに出てくるドングリのコッペパンを再現してみようとしたり、地層から粒子の細かめの粘土をこねて乾かして、焚き火で焼いてみたりして。

そのほとんどが失敗に終わりました。でも楽しかったなあ。

縄文人、すごい!って憧れたなあ。

今回、三内丸山遺跡を訪ねてみて、その時のことを鮮明に思い出しました。

遺跡の復元をしている野外エリアから、手前の建物「縄文時遊館」に戻ります。様々な施設の集合体、と言った感じなんですがその中に「さんまるミュージアム」という博物館があります。
三内丸山遺跡の出土品を展示してあるみたいなんですね。

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こちらが入口!

ポイントポイントに、こんな感じのリアルな人形さんがお出迎え。リアルなんだけどちょっとデフォルメされていて、コワくないです。とても可愛い。
#そして、一緒に復元されている犬、いかにも縄文犬(天然記念物柴犬保存会系柴犬)ですね!

中に入りますと、また展示方法がおしゃれですよ~~。東京国立博物館の法隆寺館みたいなライティングで、展示物が暗闇に浮かび上がる、みたいな展示です。

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でた~!
十字型土偶@重要文化財!!
かっこい~~!

板状で十文字型のこういった土偶は、三内丸山遺跡から1600個ほど出土したんだそうで、顔、胸、へそが表現されています。そのほとんどが盛土遺構で、壊された形で出土しているため、何らかの祭祀で用いられたのではないか、と考えられているそうです。

そして、縄文時代界のアイドルともいうべき、こちら!

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縄文ポシェット@重要文化財~~~!!!

こちらがどうして貴重かと言いますと、「縄文時代の遺跡から出土した編組製品で立体的な形が分かる全国唯一のもの」(三内丸山遺跡HPより引用)だからです。

それにしても、確かにこういったものがよくぞ残った!って感じですよね。奇蹟ですよ~~!

ちなみにこちらの素材は、「ヒノキ科(ヒバ、スギ、ヒノキ、アスナロがある)に属する針葉樹の樹皮を素材としている」(HPより引用)そうです。4000年以上残ってきた、なんて、最強に「丈夫」ですよね。中からは半欠けのクルミのカラが出てきたんですって。
こういったポシェットを腰に括り付けて、採集した木の実なんかを入れていたんでしょうか。

こちらは、全然知らずにみていましたが、特別公開だったみたい。ラッキーですね!!

いや。

それにしましてもなんですけどね。今回改めて思いました。

小学生の私、間違ってない!

やっぱり、デザインかっこいいですもん。縄文デザイン!

やっぱ、長年憧れてきてよかった。
そしてそのトップランナーと言うべき三内丸山遺跡にこれて、本当によかったです!

【2015青森旅】③今も世界のどこかにある風景に見えてきた

1500年もの間、人々が住み続けた場所。
それが三内丸山遺跡なんですね。すごいなあ。

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さて、先ほどの6本柱建物の前には、大きくて長い建物が復元されています。

「(略)長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。」
(特別史跡三内丸山遺跡HPより引用)

茅葺屋根が何とも美しいですが、縄文時代にもこんな美しい茅葺があったのでしょうか。

ミャンマーの山岳地帯に住む少数民族が暮らす「ロングハウス」みたいな、または環太平洋の海洋民族にみられる集会所みたいな雰囲気ですよね。

内部に入ってみますと…

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かっこいい~!!

広々としてますね。そして長い!
この復元された大型竪穴式住居が何メートルかは、ちょっとはっきりわからないんですが、30メートルくらいありそう。

この大きな竪穴式住居を中心に、周囲にはいくつもの竪穴式住居が復元されていました。
20151011-3何だかかわいらしい家ですね。
地面と地続きな家、と申しましょうか…
「大地に抱かれている家」というような。
20151011-5入口はこんな感じです。
腰をかがめて入っていきますと…
意外と広い!
4・5畳くらいはありますし、屋根の高さもそこそこあって、身を屈める必要はありません。
私は159センチなので、ちょうど縄文人男性の平均くらいですから、子の高さがあれば十分だったでしょう。
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屋根組はこんな感じです。
縄と組み方で持って組んでるんですね。釘みたいなものはなかったのかな?
ちょっと調べてみると、出土品の中に釘が出ることもあるみたいなので、部分的にはそういうものを使っていたのかもですね。

ちなみに、こういった復元・竪穴式住居は、ワークショップのような形で、一般の人が力を合わせて造ったみたいですね。写真を撮るのを忘れてしまったのですが、名前を刻んだ大きな木札みたいなものがたくさん置いてありました。羨ましい!

それにしても、なかなか居心地のいい空間でした。4人家族で住む、なんてことになるとちょっと狭いけど、一人か二人で住む分には結構いいかもですよ。半地下ですから、暑さも寒さもそこそこ和らぎそうですし…
あ、でも冬は厳しそうだなあ。

とはいえ、この小さな竪穴式住居で寝起きをして、イベントや会議、共同作業なんかは集会所でやればいいんですから、必要十分かもしれませんね。
それに、こういう風に暮らしている人々は今もたくさんいます。

この復元された竪穴式住居群は、何だか今も世界のどこかにある風景に見えてきました。

(続く)