イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷②岡部さん、すごいです。

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深谷が誇る鎌倉武士・岡部六弥太さん
さて、平忠度(たいらのただのり)さんの五輪塔の後は、やっぱり岡部六弥太(おかべろくやた)さんの五輪塔を見るべきですよね。車で行くと15分ほど。ずいぶん近くにあるんですねえ。

さて、岡部六弥太さんについて、ちょっとご紹介しておきましょう。

岡部六弥太忠澄さんは、鎌倉時代に活躍した人。鎌倉幕府を開いた源頼朝のお父さん・義朝の家来で、頼朝が平家打倒で挙兵した時に合流。すでにご紹介したとおり、一ノ谷の合戦では敵将:平忠度を討ち取って、武名を上げました。

「岡部さん」は、もともと有力御家人だったみたいです。

埼玉県中・北部のあたりには、熊谷次郎直実や、畠山重忠など、頼朝に仕えた大物御家人の本拠地が集中しています。「勢力を持っている」ということは、おそらくそこそこの経済基盤があったということです。深谷や熊谷のあたりは、すぐそばに荒川や利根川もありますし、豊かな農地があり、交易路もあります。遺跡や古墳もたくさんありますので、それこそ縄文のころから豊かな土地だったんでしょう。
そういう富の蓄積があったからこそ、鎌倉になって花開いた、と言えるんじゃないかと思います。

文化度の高さと富裕度は密接に関係してる
岡部さんもそんな状況の中で現れた富裕な御家人です。というか、私たちは彼のお墓である五輪塔を見て「富裕」だったに違いない、と思うに至ったのでした。
岡部六弥太墓地

こちらが、その岡部六弥太のお墓です!

なんだか妙に大きい、というか何基も五輪塔がありますよ。資料によりますと、岡部六弥太の父母、妻など一族の五輪塔6基が残ってるみたいです。
岡部六弥太墓この左側の削れちゃってるのが、六弥太さんの五輪塔だそうです(右側はお父さんの五輪塔)。なんでこんなに削れているかというと、お乳が出ないとき、また子宝を授かりたいときにこの五輪塔を削って飲むといい、という迷信があったんですって。なんでそんなことになったんだろう??ナゾです・・w
#ひょっとした六弥太さんは女性に優しい人だったのかもしれませんね。

また、この五輪塔は「凝灰岩」という、比較的やわらかい石でてきてるので、削りやすかったんだろうなと。ちなみに、地らの凝灰岩は、群馬県の天神山産だということがわかっています。美しい白色で、きめが細かく細工もしやすいそうです。いろんなところに運ばれて、供養塔などに好んで使われたんですって。

そして、この天神山は、あの名族・新田氏の領地にあります。新田氏の重要な交易品目だったんでしょうか。また、この石を大量に使って五輪塔を代々作っている岡部さんなので、きっと新田氏とも交流があったんだろうなあ、と想像されます。
岡部氏の墓そして、六弥太さんの左側にあるこちらは、奥さんの玉ノ井さんの五輪塔です。こちらは形もよく残ってますね。

それにしても美しい五輪塔です。写真だとちょっとわかりにくいですが、白地に赤茶の地層みたいな模様が入ってます。マーブル模様ってかんじです。形もとても洗練されてます。

じっと見つめていた石造センパイが、ほうっとため息をつきました。

「これを作った人、概念としての五輪塔の意味をちゃんと理解してて、なおかつ中央で作られている五輪塔をつぶさに見たことがあるんじゃないかな。でないと、こういうきれいな五輪塔は作れないと思うよ」

うんうん。確かにこのクオリティは半端ないなあ。
玉ノ井墓以前、国の重要文化財に指定されている東松山市の宝篋印塔を観に行った時も、そのあまりに洗練された美しい姿に驚きました。なぜこんな鄙の地にこれだけのものが?!と。

こういう洗練されたものがある、ということは、このあたりの当時の文化度を垣間見ることができます。そして冒頭にもお話ししましたが、文化度が高い、ということは経済的基盤がかなりしっかりあったはず=富裕なんじゃないかと。

たとえ、今は野原であったとしても、こういった石ものがあることで、そこに高度な文化があったことを確認できますね。この五輪塔を見る限り、当時の岡部氏の文化度の高さは相当なもんだったろう、と想像できます。

(続く)

イシブカツvol.10  あついぞ!熊谷&深谷①「関東石もの」の聖地へ

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記念すべき第10回目
またまたちょっと久しぶりになってしまいましたイシブカツ。前回の「東京真ん中編」から、ふと気が付いたら二か月以上経過。油断なりませんねえ。

そんなこんなで、今回はなんと記念すべき10回目だったりするのです。イシブカツ、感動の10回目は、やはり「熊谷」ですよ!!
実は、石部が愛してやまない「板碑」の最古は熊谷市にあるんです。そして第一回イシブカツも熊谷巡礼から始めたのでした。まさに「聖地」と言って過言でない場所!!

しかし、熊谷といえば数年前日本最高気温をたたき出し、「あついぞ!熊谷」キャンペーンで有名です。何もこの暑いさなかに行かなくてもいいような…

「いや、だからこそ行く。暑い熊谷をあえて味わいたい!」

熊谷のやばい暑さを知ってひよる私に、石田石造(女)センパイがこぶしを振り上げる如く言い放ちました。そこまで言われちゃあ私もこぶしを振り上げざるを得ません。熱中症にならないように、せめてかき氷「雪くま」を食べるぞ!といつも以上にリキをいれてリサーチを開始。そして今回は、熊谷の北部と深谷エリアの石ものを見て廻ろう、と予定を立てました。

深谷エリアの石ものもアツイ!
熊谷は、平家物語でも有名な「熊谷次郎直実」の出身地ですし、有力鎌倉武士の地だというのはよくわかっていました。なので、鎌倉時代の立派な板碑がたくさんあるのはよくわかっていたんですけど、そのお隣の深谷市は盲点でした。石部の根本教典(?)である川勝先生の『日本石造美術事典』に掲載されていなかったことも大きな理由です。

調べてみますと、確かに板碑はあまりないですが、立派な五輪塔が数基あります。私たちはまず、その五輪塔を見て廻ることにしました。

まず訪れたのは、「平忠度(たいらのただのり)の墓」。深谷駅から車で5分ほど。歩いても15分くらいの清心寺境内にあります。
清心寺立派なお寺ですよね!……いや、実は私たち、深谷駅周辺に来てちょっと驚きました。ほんとなめててごめんなさい、というかんじなんですけど、神社やお寺が多く、しかもとても立派なんです。
さらに少し車を走らせていると、美しい小川がそこかしこを流れていて、水が豊かなことがわかります。こういう環境は、間違いなく「豊かな土地」ってやつです。熊谷もそうですけど、こういう土地に鎌倉時代有力ご家人がいたというのはとてもわかりやすい。納得の地勢です。
清心寺そしてきよぎよしく立派な本堂。ドドーンとしていて「武士!」ってかんじ。かっこいいですね。こちらのお寺は、室町時代、深谷を領していた深谷上杉氏の有力家臣だった岡谷氏創建だそうです。

平忠度さんと岡部六弥太さんの因縁
お寺の門をくぐってすぐ左にお目当ての五輪塔はありました。でも、本堂でまずはご挨拶…というわけで、お参りを済ませてから改めて入り口付近に戻ります。
平忠度の墓標はいこちら!
立派な看板もあります。「平忠度公墓」。

さて、この「平忠度」さんですが、どんな人と申しますと、平清盛の異母弟です。弟と言っても26歳も年下。紀伊半島の熊野で生まれ育った人らしい。

武人としても見事な人だったらしいですが、歌人としても有名だったそうで、一ノ谷の戦いで、源氏方のご家人、岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)に討ち取られた時も、敵味方なくとても惜しまれたんですって。

実は、この五輪塔も「墓」となってますけど、実際には骨が入ってるわけではなく「供養塔」なのです。平忠度を打ち取った張本人である岡部六弥太が、その死を悼み、供養のために自分の領地の一番景色のよい場所に、この五輪塔を建てたんだそうですよ。いやあ、なんかいい話ですよね。
平忠度五輪塔こちらがその五輪塔です。火輪(笠)や水輪(丸い真ん中の部分)の様子を見るとそれほど古くなさそうに見えます。古くても鎌倉後期くらいじゃないかな…。市の文化財資料をみますと「鎌倉~室町」とあります。定かでないんですね。

この塔を建てたという岡部六弥太は、1197年(鎌倉初期)に亡くなってますので、時代が合わなくなっちゃいますね。ううむ。しかし、この塔は鎌倉初期まではいかないですよねえ。ううむ。

とはいえ、この塔のすっきりとさわやかな印象はいいかんじです。伝承にある「平忠度」の文武両道な人物像と、それを悼む武人・岡部六弥太の印象ととてもよく合ってます。

さて、そしてその横には、板碑もありましたよ。
板碑こちらは、深谷市指定文化財になっていますが、詳細不明。資料によると「鎌倉」とだけありますね。上部分が欠けてしまってますが、残っている蓮台の様子なんかを見ますと、キリッ&スパっなかっこいいかんじ。鎌倉中後期、かな~。ううう、わからない。
#どなたか、ご存知の方、ぜひ教えてください!!

(続く)

イシブカツvol.9 東京真ん中編⑤山縣さんちの石もの〔後篇〕(椿山荘)

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世紀の大発見

さて、椿山荘といえば、大変有名な石灯籠があります。江戸時代から高名だった「般若寺燈籠」です!
般若寺燈籠

かっこいい!!!
素晴らしい調和感と、存在感。やっぱし本物は違うって感じですよ!

さて、この石灯籠、椿山荘のサイトを見ると「般若寺型石灯籠」とあります。「型」というのは、原型となる名物燈籠(これを「本歌」と言います)があり、それを写したもの、という意味ですね。
般若寺の灯籠というものも、実際に奈良の般若寺には般若寺燈籠(上の写真です)と呼ばれるものがあったので、椿山荘の灯籠は、写しという位置づけだったのですが(というよりも忘れ去られていた、と言ってもいいのかな)、石造美術界の巨人、川勝政太郎博士がこちらのほうこそ本歌ではないか、と「再発見」したのでした。

名物・般若寺石灯籠
川勝博士が、椿山荘でこの石灯籠を「発見」した時、この石灯籠は、なんと庭の隅のほう、プールわきに狭いところに無関心なまま置かれていたそうです。

なぜこの石灯籠が、椿山荘にあったのか、来歴はよくわからないそうですが、これだけ素晴らしい石灯籠を、庭好きの山縣公がわからないわけがないと思います。これが般若寺の本歌だということは知らなくても、この石灯籠の素晴らしさを知って、大枚はたいて購入したんじゃないでしょうか。でもその後ほかの人の手に渡るうち、よくわからないまま、放置されていた、ということかな、と想像します。

現在では、庭園全体の修復・再調整も終わり、丘の上の、三重塔の左わきのなかなかいい場所へ移されています。よかったよかった!
#数年前前ではもう一段低い、狭い場所に置かれていてちょっと悲しかったんですよね^^;

「寺社」の灯籠と「庭」の灯籠
ところで、この「灯籠」というものなんですが、灯りをともす器具ですよね。そこまでは間違いないんですが、石灯籠というもの、その本来の目的を知っておくと、視点が変わってくるのでちょっと補足しておきます。私もこのことを師匠N先生に教えていただいて、目から鱗が落ちる思いがしました。

もともと、この灯籠は、「仏さまへの捧げもの」として設置されていました。ですからこの灯りは、仏さまの正面に捧げられるというスタイルが、本来正しいのです。
東大寺大仏殿たとえば、こちら。大仏殿の写真ですが、その正面に有名な国宝・金銅八角燈籠がどーんとありますね。これ、これ、このスタイルです。こちらは石製の灯籠ではありませんが、意味は全く同じ。この灯籠の灯りは、大仏さんに捧げられているわけですね。
秋篠寺こちらは秋篠寺の本堂です。こちらも正面に石灯籠が一基おかれています。

奈良に行きますと、このような「正面一基」のスタイルのお寺さんがほとんどです。もちろん関東や、ほかの土地でも古い歴史を持っている、もしくは灯籠の意味をよくご存じ、というお寺ではこのようなスタイルをとっておられますね。

いっぽう、よくみられる「両脇に分かれて」おかれているスタイルは、割と後代になってからのスタイルだそうです。こちらはどちらかというと、参拝している人々の手元や足元を照らす、という意味合いになり、こちらは人を主役にした配置、と言えましょうか。

「加飾」大盛り、見切りの「美」
…と、灯籠についてちょっと語りすぎてしまいました^^;。今回は、「イシブカツ」ですから、実際に拝見したものについてご報告していきましょう。

般若寺石灯籠の魅力は、「バランスの妙」だと思うのです。

いろいろ好みはおありと思いますが、私の場合、石もので「わあかっこいい」と思うものは、デザインがシンプルで品と存在感があり、広がり・奥行きを感じさせるもの…なのですが、この石灯籠を見ていると、「シンプル=品がよい」というのも安易な考えだわ、ということに気づかされます。
般若寺燈籠ちょっと寄ってみてみますと、実はこの石灯籠、ものすごいデコラティブ。

笠にしても火袋(灯りを入れるところ)、その下の中台にしても、とってもデコラティブですよ。笠の蕨手もくるりんと見事にまいてますし、火袋の四面には、牡丹、獅子、鳳凰、孔雀が浮彫されています。

普通、これだけ要素を入れこもうとすると、なんだか「やりすぎじゃない?」みたいな気持ちになってしまうんですけど、この灯籠を見るとそういう風に思いません。
つまり、『調和が取れてる』ってことなんですね。何か一つ突出して見えている、というのはつまりバランス悪い、ともいえるわけで。

しかし、この灯籠はざっくり全体を見るだけで、ああすっきりとして美しい灯籠だなあ、とまず思います。で、じっくり見てその飾りの多さに驚く…という感じ。なんだか作り手の「してやったり」笑顔が浮かぶような気がしますね。

本歌ならではの躍動感と力強さ
ちょっと火袋の浮彫を見てみましょう。獅子後ろ足を跳ね上げてすごい勢いの獅子(右)。
孔雀と鳳凰孔雀(たぶん;左)と鳳凰(右)。
この神獣たちも、いい感じですよね。すごく生き生きしてますし、結構リアルな表現です。

「むとうさん、ここ、ここに注目!」
孔雀の脚石造センパイは、孔雀の脚の部分を指さしました。

「この孔雀の脚、画面を飛び出して下の格狭間(こうざま)のところまで伸びてるでしょ。川勝さんは、『枠を飛び出してしまうこの勢いこそ、本歌のしるし。写しだとこうはできない』といったんだって。確かにオリジナルじゃないとこうはいかないよね」

なるほど!

確かに、ふつうは、はみ出しちゃうなんてありえないです。でも、あえてそこを逸脱することで、枠に収まりきらない躍動感が出てきている。生きている鳥のようです。
模造品を作ろうと思う側は、なかなかこういう逸脱したことってできないのかもしれない。

「般若寺にある写しだと、枠の中に収まってるんだよ」

なるほどな~~。深いなあ。
川勝先生は、モノを作る人の心もちやスケール感をよく理解されてたんですね。そういう美意識を持ちながら歴史的にこういったものを見ていく、というそういう学者さんだったわけですね。

それにしても、この石灯籠は素晴らしい。堂々としていて、でも繊細、…でも力強くて品がある。カンペキですね。

ふほおおお。

ため息をつく石造センパイと私。

こういういいものを見せていただくというのは本当に幸せです。まさに眼福。
すっかりと幸福感に満たされて、今回のイシブカツも無事終了したのでした。

(終わり)