file.4 石塔寺三重塔(滋賀県)

不思議な引力のある地・近江の国
「この石ものが好き」4番目にご紹介するのは、ひょっとしたら、私が好きな石もの3本の指に入るであろう、とっておき「石塔寺三重塔」です!

場所は滋賀県、近江の国。
関東在住の人間にとっては、滋賀県と言われてもピンと来ないかもしれませんが、この辺りは日本一大きな琵琶湖を擁する特別な場所、歴史好き、仏教美術好きにとっては避けて通れない、強力な引力のある場所です。

例えば、ナゾの多い古代の大王、継体天皇の出身地であり、天智天皇が都を遷した場所であり、比叡山が作られた場所であり、織田信長が安土城を築いた場所でもあります。

京都や奈良のように、塊で語られることが少ないので、どうも印象が弱いような気がしますけど、こうして並べてみると、「覇者」に縁の深い場所ですよね。でも、継体帝は近江から出ていった人なので、別として、ここに何かを築こうとした覇者二人は、一代で終わってしまってます。
織田信長も天智天皇も強烈なカリスマで、なんだか共通点みたいなものを感じます。この二人が近江の国に都や肝心な城を築いたというのは、やはり不思議ですね。

「この場所を制することは、覇者がやりたくなることなんだけど、結局この地の呪力みたいなものには太刀打ちできなかった」。そんな感じかもしれません。

日本じゃないみたい!
さて、そんなわけで、この辺りはとても古くから文化が根付いていました。渡来人も多く住んでいたので、優れた石造物もたくさん造られています。

その中でも、燦然と輝くのが今回ご紹介する「石塔寺三重塔」です。
石塔寺三重塔実はこの写真、8年前に携帯で撮影したもの^^;。ちょっと画面が荒れてる感じですけど、あしからず…。

いや、しかし!

写真の状態は最悪ですけど、久しぶりに見ていて、テンション上がってきちゃいました!かっこいい~~!上段に向かうにつれわずかに小さくなっていく軸部。屋根の部分も緩やかな軒ぞりでいい感じ。「作りすぎる」とは対極な、自然な感じがします。達人の上、ってかんじです。
それにしても、この写真だけ見ると、なんだか日本じゃないみたいですよね。

この石塔が作られたのは、奈良時代前期といいますから、710~750年くらいです。聖武天皇のころくらいかな。
この辺りは、天智天皇の時代に、朝鮮半島で百済が滅亡した際に亡命してきた人々が入植したと、記録に残っています。おそらく、そういった人々がこの美しい塔を作ったんだろう、ということなんですね。

というのも、まずこのデザインがまんま百済っぽいということもありますが、素材も花崗岩なので、ますます大陸の人たちが作ったんだろうと。
#古代の日本では、石造物といえば、柔らかい凝灰岩を使うのが一般的でした。
石塔寺三重塔また、この塔を取り巻くように無数の五輪塔があるのも、壮観です。
これらの五輪塔は、鎌倉期以降、この石塔に奉納されたものらしいんですね。この塔自体が信仰の対象だったわけです。

「阿育王(あしょかおう)塔」の伝説
鎌倉時代に書かれた『源平盛衰記』にも、この塔について書かれてそうなんですが、ちょっと不思議な伝説があります。

紀元前3世紀ごろ、インドに実在した人物でアショーカ王(漢字表記だと阿育王)という人がいました。アショーカ王は、仏教に深く帰依し、仏教を広めるために力を尽くした人物です。

とくに有名なエピソードは、ブッダガヤに詣でて、仏舎利(仏陀の骨)を掘り出し、8万4千の仏塔に分納したというもの。8万4千という数字は誇張でしょうけども、実際、王が起源になっている塔が、アジア中にたくさんありますから、本当の話かもしれません。

そしてこの日本にも。
このたくさんの塔のうちの二つが日本に飛んできた、というのです!そう!そのうちの一つがこの「石塔寺三重塔」だと!

いや、それはも、ちょっと無理っていうか、なんですけどね^^;。

でもそんな伝説が残るほど、この塔は特別なものであり、その後も大切にされました。この周りにかしづく五輪塔群がそれを物語っているのです。

この不鮮明な写真を見ていて、またこの塔に会いに行きたくなりました。写真でもかっこいいですけど、生で見るともっとかっこいいんですよね!
ぜひ、皆さんも足を運んでください。
もしちょっときついなあ、と思われる方は、京都の法然院に模造がありますので、そちらを訪ねてみてください。ちょっと雰囲気違いますが、こちらの塔もまたすがすがしくて美しい塔です。

石塔寺
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=536

file.3 般若寺十三重塔(奈良県)

コスモス寺・般若寺
奈良がお好きな方はご存知と思いますが、東大寺の西側のすぐそばに般若寺(はんにゃじ)という古寺があります。
東大寺と比べてしまったら小規模、と言えるかもしれないですが、いえいえ、さにあらず。こちらもまた、鎌倉時代の素晴らしい建造物がたくさん残っている素晴らしいお寺です。

こちらは、「コスモス寺」としても有名で、秋になるとたくさんの妙齢の女性(わたしもですけども)が押し寄せて目を細めています。鮮やかなコスモスが咲き乱れ、美しい建造物が埋もれているような風景。その中を歩きながら少女のように笑い声をあげるおばさまたち……w。
この光景には、こちらにゆかりのお坊さん、叡尊(えいそん)さんもきっと目を細めてうなずかれることでしょう。叡尊さんは女性の幸福を心からお祈りしたような方でしたから…

圧倒的な、「美」!
さて、そんな方面でも十分美しいお寺ですが、こちらは石ものファンにとっても、非常に特別なお寺です。というのも、こちらにある十三重層塔(重文)は、鎌倉時代石造美術界の金字塔・伊行末(いぎょうまつ)が作った石塔だからなのです。

めっちゃかっこいい!!でかい!

めっちゃかっこいい!!でかい!

この石塔は、高さがなんと12・4メートル。国内で二番目に大きな石塔なのです。
ここまで来るともう理屈じゃありません。素晴らしいバランスと、圧倒的な存在感!

さて、こういうスタイルの石塔を「層塔(そうとう)」と呼びます。三重塔や五重塔のように、屋根が何重にかなっている塔です。
こういう塔は、木造の塔と同じような意味と思っていいと思います。中に、仏像や舎利塔を納入していたりして、この塔そのものが祈る対象そのものになります。そういう意味では、東南アジアでよくみられるストゥーパ、パゴダの日本版と考えていいのではないかと。

秋にはこんな風にコスモスに囲まれます。

秋にはこんな風にコスモスに囲まれます。

さて、この塔を作った「伊行末(いぎょうまつ)」さんですけども。

この人は、前回ご紹介した「重源」さんが東大寺復興の際に中国(南宋)から招聘した、宋人石工4人のうちの一人、と言われています。
東大寺の修復はもちろん、重源さんがお金を集まるために各地に作った別所の石壇、室生寺の手前にある大野寺磨崖仏等もこの宋人石工の人たちがかかわっていたそうです。

この四人の中で唯一名前が記されて、現在にも伝わってきているのが「伊行末」さんなのです。おそらく特に優れた才能があったので突出したんでしょう。

かっこよすぎる十三層塔
さて、そんな彼の才能は、この層塔を見れば一目瞭然なのですが、もう少し細かく見ていきましょうか。
hannyaji3

この写真の前方に見えるのは「相輪(そうりん)」です。後方に写っている十三重塔をみてください。屋根の上に細長い棒のようなものが見えますよね。この部分を相輪と呼びますが、この写真に大きく映っているほうが本物で、今後方の屋根の上に据えられているのはレプリカなんだそうです。

hannyaji5それからこちら。屋根の一番下のほうなんですが、四角形の軸部(じくぶ)があります。
軸部は「四方仏(しほうぶつ)といって、東西南北に如来(にょらい)が彫られて(線刻)います。写真は多分、南向きの部分だたと思うので、お釈迦さんです。ちなみに、東は薬師(やくし)さん、西は阿弥陀(あみだ)さん、北は弥勒(みろく)さん。

それにしても、この線刻もよいですね~~~。ちょっと写真だと分かりにくいかもしれませんが、本当に繊細で、かつ安定してる感じがします。

伊行末さんは、ずいぶん若いうちに日本に来たみたいなんですよね。なので、もともと才能はあったかもしれないけど熟練の工人というわけじゃなくて、日本に来てからさらに鍛錬して、日本の美意識をよく理解し、中国の美意識を加えて、素晴らしいものを作り上げた…って感じらしいです。
実際、彼のデザインはものすごいインパクトだったみたいで、この層塔にしても、石灯籠にしても、彼以降は彼のデザインが基本形の一つになっていったんだそうですよ。すごいことですよね。

叡尊さん+伊行末さん、ダブルの味わい十三重層塔この層塔は、そんな伊行末さんの代表作の一つです。圧倒的な美。でも、なんとなく大らかであったかい。非常に男性的な個性を持っていると思います。父性、っていうか。

もちろん、それは伊行末さんの個性でもあったかもしれませんが、この塔を発注した人物・叡尊さんの個性だったかもしれません。

叡尊さんは、西大寺を復興させたお坊さま。律宗の復権を目指し、活動した方で、世代的には重源さんより50年ほど後の方ですが、重源さんと同じように、醍醐寺で僧侶になり、そのあと高野山で学んでいます。

叡尊さんは死後、「興正菩薩」とたたえられた高僧。
差別されている人々、娼婦、らい病患者など、弱い人たちのために、病院を作ったり、生活必需品を支給して、その救済に努めました。それから、女性のための戒壇(正式なお坊さんになるための場所)を設け、女性が正式な僧侶になれるようなシステムも作り上げた方でもあります。

実はこの般若寺も、東大寺が焼き討ちされた時に一緒に被害に遭い、荒廃してたんだそうですが、この叡尊さんたちによって復興されたんだそうです。そして、その時にこの層塔が作られた、ということなんですね。

実は、私、この叡尊さんも大好きなんです!
なので、またこの塔を見ると、伊行末さんと叡尊さんがダブルで味わえるので、二度おいしい?んですよね~。

何度拝しても、気持ちが晴れ晴れしくなる層塔です。
ぜひ皆さんも、東大寺に行かれた折にちょっと足を延ばしてみてください。

 

file.2 究極形の五輪塔/伴墓五輪塔(奈良県)

東大寺を再建したスーパーお坊さん・重源(ちょうげん)さん
「五輪塔」といえば、とても気になる五輪塔があります。それは、東大寺横の三笠霊園にある『伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)』(重文)。

鎌倉時代、平家によって東大寺は燃やされてしまったんですが、その復興を指揮した人物に、重源さんというめちゃくちゃすごいお坊さんがおります。この五輪塔はその重源さんを供養するためとも、お墓であったとも伝えられているものなんですね。

実はこの重源さん。ほんと~~にすごい人なんです!!

東大寺って、今見てもものすごく大きくて立派ですね。しかし、あのお寺のすごいところは、あの建物を建てるにあたっての「方法」「コンセプト」なんです。
国家で全額出す、とかそういう方法ではなく、いろんな階層の人々の寄付でもって建造する、というのが、創建した時に大切に考えられた方法でした。

なので、鎌倉時代に再建するにあたっても、その方法を踏襲しました。
日本中にお坊さんを派遣して、様々な階層の人から寄付金を集め(勧進)、そのお金であれだけ大きなものを作り直したんですね。
その取りまとめをしたのが、この重源さんというお方なのです!

これってものすごく大変な大事業ですよ~~!
想像を絶するほどの大勢の人々、思惑をコントロールしつつお金を集め、最終的に、あれだけ大きな鋳物の金銅仏を作り、なおかつ巨大な覆い屋(建物)を作るんですもの!

重源さんは、この再建を任された時、すでに61歳だったといいます。今聞いてもその歳からこの大事業の責任者!?と思いますけど、当時の60代は今よりももっと上の年齢の感覚だったでしょう。そんな年齢から、なんと20年余りをかけて重源さんは見事その責任を全うし、大仏殿を再建したのです。

すごくないですか!?マジで!!

美術史に燦然と輝く、鎌倉時代の名品たちの揺籃
また、重源さんの普通じゃないところは、自分自身でも、工人的知識・土木知識を持っていたところ。重源さんは、なんと中国(南宋)を三回も訪れたといい、中国の最先端文化に精通していました。なので、再建にあたり中国の優れた工人をたくさん呼び、中国の工人や日本の工人に優れた建造物・仏像・石造物をたくさん作らせました。

あの、天才仏師、運慶・快慶しかり。仏像にしても建造物にしても、工芸品にしても、鎌倉時代には本当に素晴らしい名品が数多く作られましたが、その背後には、びっくりするぐらいこの重源さんの影があるのです。

重源さんは、事業家としても天才的でしたが、美意識・見識も抜群の人だったんでしょうね。彼が成し遂げたことを何度も何度も見続けてますと、本当に頭が下がります。そして、心からあこがれてしまうわけなのです!

さて、この五輪塔はとても有名な五輪塔なんですけど、なんで有名かというと、鎌倉時代のスーパースター重源さんゆかりのもの、という点以外に、そのスタイルが一般的なものと異なるということもあります。

gorintouちょっと繰り返しになってしみますが、五輪塔というのは左のイラストのようなスタイルで作られています。

下の基壇(地輪)は四角、水輪は丸、火輪は三角…という形で、これらすべてが、とある経典の教理の具現化でもあるわけなんですね。

そして、立体的な言い方をすれば、地輪は四角柱、水輪は、球体、火輪は「四角錐」になっています。
平面的に見たら、四角、丸、三角に見えますし、造形的にも、物理的にもおそらく安定するだろう、という形です。

しかし、この「伴墓五輪塔」は、その火輪が四角錐ではなく、「三角錐」なのです。このスタイルのことを「三角五輪塔」と呼びます。

これです!

伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)。

伴墓五輪塔(ともばかごりんとう)。

正面から見ると、見事に「四角・丸・三角」ですよね!
それで、この屋根みたいな部分(火輪)が、立体的に見ても三角形なのです。どういうことかというと…
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こんなかんじです。

こうしてみると一目瞭然ですが、四角錐の火輪のほうが、作りやすそうだし、安定すると思うんですよね。
だけど、あえてこうしたかったわけです。つまり、このスタイルは、「火輪は三角形である」というコンセプト面をより大切に、強調している形、と言えるんじゃないかと思います。

上から見るとこんなかんじ。三角辺の線がなめらかでほとんどない。

上から見るとこんなかんじ。三角辺の線がなめらかでほとんどない。

コンセプト重視の「究極の形」
この「三角五輪塔」は、重源さんがとくに好んだスタイルだったようです。
重源さんゆかりのお寺では、水晶製の舎利塔など、この三角五輪塔のスタイルであらわされているものが、いくつか残されているそうなんですね。

そのために以前は、重源さんが考えたデザインじゃないか、という説もあったそうなんですけど、今では重源さんが修業した醍醐寺ですでに三角五輪塔のデザインがあったことがわかっているとのこと。つまり、自分自身のルーツである醍醐教学の大切なエッセンスである三角五輪塔を、重源さんも大切にしていた、という 証、と言えるかもしれません。

じつは、この伴墓五輪塔を初めて見た時、私はそのアンバランスさに驚きました。

笠がずれてるような気がしましたし、とにかく不安定な感じがするんです。
だけど、よくよく見てみると、そのアンバランスさに何とも言えない魅力があります。

これも私の勝手な想像なんですけど、重源さんってとっても人間らしい、清濁併せのむタイプの、スケールの大きな人だったんじゃないあと思うんですよね。ある人にとってはまるで菩薩のようで、ある人にとってはまるで悪魔のような…そんなアクの強い人だったんじゃないかなあ。

けして器用なタイプの人ではなかったんじゃないかと思うんです。でも、人を信頼するとか、一度決めたら絶対に意志を曲げないとか、そういう強さを持った人だったんじゃないかなあと。
だから、周りの人も、「重源さんがそういわはるんやったらやらなしゃあないなあ」とかそんな感じで、彼を応援していったんじゃないかな、なんて思うのです。愛さずにはいられない、憎めない人、というか。愛嬌たっぷりの人だったんじゃないかなあ。

この三角五輪塔には、そんな気配を感じるんです。
アンバランスだけど、コンセプトを表現する形としては、最強です。余分なものが何もない。むき出しの何かがそこにあります。
それは、重源さんという人そのもののような気がするのです。