故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?★追記。つまり阿育王信仰…


前回、「銭弘俶塔なのに、銘が905年!?ってどういうこと?」というレポートを書きました。

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?

その後、2004年トーハクさんで開催された『中国国宝展』の図録を読み返してましたら、まさにそのアンサーとなる文章が掲載されていつことに気が付きました!(『中国仏教美術史にみる阿育王信仰』小泉惠英氏執筆)

結論から言うと、私の理解不足でしたが、「阿育王塔」とは、中国で4世紀ぐらいから盛んになった「阿育王信仰」、つまり、仏舎利に関わる信仰の象徴として連綿と中国で作られており、ひとつの様式を伴った塔だったようです。

つまり、「銭弘俶は、阿育王の故事に倣って、阿育王塔の小塔を、阿育王が作ったと伝わる数でもって造塔した」と言ったほうがよかったみたいなのですね。

(ほかの資料によると、いわゆる「阿育王塔」は三層構造だったということなので、日本では、滋賀県にある石塔寺の三重塔が近いんじゃないかと、勝手に連想してみたり。そういや、阿育王塔ってあれそうだよな、と今更気づくニワトリ頭な私。日本にもバッチリ阿育王信仰は伝来しておりましたのですよ。石塔寺については以前、イシブでご紹介したことがあります↓ )

file.4 石塔寺三重塔(滋賀県)

ですので、この故宮博物院の「金塗塔」が、銭弘俶よりも先行していても、まったくおかしくない、ということになります。

なるほどなあ。

自己完結ではありますが、勉強になりました!

(むとう)

故宮博物院@台湾に行ってきました!①どう見ても銭弘俶塔なのに、銘が905年!?


突然ですが、台湾に行ってきました!
なんと、我ながら意外なことに初めての台湾!

楽しかったです~~。(余韻)

台湾についてのレポートは、いろんな方向から書いてみたいと思いますが、忘れぬうちに、まずは「故宮博物院」から。

一度は見てみたい、というか見ないといけない故宮博物院。清朝皇室のコレクションの大切なところを、中華民国が持ってきてしまって作った博物館ですから、伝世品のこれはというものは、北京よりもこちらにあるんではないか、という、それはそれでかなり複雑な背景がある場所なわけですが…。

(あいにくの雨でしたが、それはそれで雰囲気ステキでした。)

その複雑さについては、ちょっと今は置いておきまして、忘れないうちにいくつか「おおおお!?」と思ったものについてレポートしておきたいと思います。

前置きはともかく、まずはこちらをご覧ください。


誰がどう見ても有名な「銭弘俶塔(せんこうしゅくとう)」ですね。中国では「金塗塔」「銅阿育王塔」とも呼ばれます。

「銭弘俶塔」というのは、紀元前3世紀ごろ、インドのアショーカ(阿育)王が、八万四千もの塔を造塔したという故事にならって、呉越国王・銭弘俶が、八万四千の塔を作らせたと伝わるもの。銅製、銀製、鉄製のものがあります。日本にも伝来していて、完品としては奈良博さん所蔵の「銭弘俶八万四千塔」があり、ほかに永青文庫所蔵のものも有名ですね。

銭弘俶は熱心な仏教徒で、「散逸してしまった経典を譲ってほしい」なんてお願いを、日本や高麗に使者を出しているほど。また、記録によれば、造塔した塔のうち500を日本に送ったとも言います。

そんなわけで、この形の塔は、一つの塔のスタイル(様式・デザイン)として、とても有名なんです。

……ところがですよ。

んんん??
天佑二年(905)年とありますよ??! あれれ??

ちなみに唐が滅んだのは、その二年後の907年で、呉越国が成立したのは、その後のことです。銭弘俶はその呉越国の五代目(929年生まれ、在位948―978)ですから、905年では影も形もありません。

すると、銭弘俶が作ったとされるこの塔のデザインは、唐末にはすでに存在していた、ということになります。

え~~!?

細かいことは省きますが、デザインとしてはほぼ同じです。あえて言うなら、基壇の下の部分に反花(かえりばな)がないことくらいでしょうか。

すると、インドの阿育王の造塔した塔と、銭弘俶の塔との中間に位置する「阿育王塔」と言えるのかもしれません。しかし、阿育王が作った塔は、どうも石柱っぽいので、こういうかたちではなかったのではないかと思いますけども……。

単に勉強不足で知らなかっただけかもしれませんが、日本で銭弘俶塔について語られている資料では、銭弘俶以前にも同じような塔があった、ということは書いてありません。もっと詳しい資料があったら、どなたか教えてください!

いやあ、ほんと。びっくりしました。

しかし、この塔があるのは、一番最初にみた部屋です。
この塔一つに、これだけかぶりついてしまっている私。明らかにペース配分がおかしいことは、お分かりいただけると思います。

そんなわけで、しばらくは気になった名品の数々を、こつこつとご紹介していくこととにしようと思います。

(つづく)

驚愕するほかない圧倒的文化力と人間力/②『原三溪の美術』展@横浜美術館


前回より続く)

三溪が三溪たるゆえんあり

原三溪は1868年に岐阜で生まれました。本名を富太郎といいます。生家の青木家は代々庄屋で、お父さんは村長、お母さんは、文人南画家・高橋杏村の娘という、文化的・芸術的素養の高い環境で成長します。幼いころから秀才の誉れ高く、画についても周囲に一目も二目も置かれたいたようです。

今回、改めて驚いたのは、少年時代に三溪が描いた絵です。

(写真は図録より引用)

「乱牛図」というこの画を書いたのは、16歳の時なんだそうですよ。

うまい!

しかも、単にうまいと言うだけでなく、何とも言えない味があります。人間的明るさ、と言ってもいいかもしれない。

この乱牛図にしてもここまでたくさん水牛描く??…と思いますけど(そういうテーマではあるんですけども)、ひとつひとつがとても愛らしくて、人物も童画のようでほほえましい。やややりすぎな極まり感はあるのに、何ともいえない愛嬌もある。その後の三溪さんの姿が、すでにもうここにあるような気がします。

三溪は、いわば環境エリートだと思います。質のいい教育--今の受験勉強のようなものではなくて、人間力や創造力、美意識を高めるような教養を身につける教育を、物心ついた時から自然と授けられてたんですね。

元大蔵大臣・井上馨から、破格の一万円で譲り受けた『孔雀明王像』

そんな富太郎少年は、17の時上京します。今の早稲田大学の前身である東京専門学校に入学しますが、7年後退学。どうもいろいろあったみたいですね。そしてそれから横浜の生糸商・原善三郎の孫娘に婿入り。原富太郎と名乗るようになります。この時24歳。

コレクションを開始したのは、翌年の25歳からだそうで、婿養子だったのに大丈夫だったのかな?と、心配になってしまうようなスピード感ですね。

そして、コレクターとしてその名が大きく知られるようになったのは、35歳(!)の時。元大蔵大臣の井上馨から当時としては破格の一万円で『孔雀明王像』を購入したことによってでした。

その『孔雀明王像』が、今回ポスターなどに登場しているこの画ですね。

 

現在は国宝に指定されて、東京国立博物館に収蔵されています。

現物を拝見したのは初めてだったんですけども、それにしてもすごい画でした。

儀軌通りで、お手本のようでありながら、同じ構図の他のものと比べても、圧倒的な存在感。あまりに美しくて、目が覚める思いがしましたよ。

図録などを見ても、その来歴は「井上馨蔵」で止まってしまいます。それ以前はどうだったのかがわかりませんが、これは相当に本筋のお寺さんにあったに違いないですよ。本筋中の本筋。おそらくは東密系のど真ん中のお寺さんの秘宝だったと思います。

それにしてもこんなにすごいものが、外に出ちゃう時代だったのか…と、改めて当時の混乱を思います。この画は、お寺さんの外には本来出るべきものじゃないですもの。

残念ながらこちらの公開は8/7まででしたので、もう見られないのですが、東博さんで公開することもあるでしょう。その時には、ぜひ本物をご覧ください!

怒涛の如く押し寄せてくる名品の数々

とはいえ、ですよ。

はっきり言って、三溪さんのコレクションは、みんなそんな感じですね。なんでこれを個人で所有できるの?!と言った名品ばかりです。もちろん今回の展示は、5000点を超えたという蒐集物の中からの約150点ですので、選りすぐりの名品だろうと思います。しかし、ほかの物もきっとすごいはず。三溪さんのおめがねにかなうものは、一流のもの以外あり得なかったんじゃないかと思うのです。

そして、『孔雀明王像』と同じくらい、うわあっと思ったのは次の観音像です。

こ、これは……。個人で所蔵していいお像ではない……

しかし、なんだか見覚えがあります。現在は細見美術館蔵だそうなので、そこで見たのかな?と思って調べてみたら、奈良国立博物館寄託になっていました。そうそう、そういえば奈良博で拝観したことがあったような気がします。

そして一方で、秋篠寺の「十一面観音像」(重要文化財)を連想しました。平安初期のいわゆる貞観仏、一木造りのまさに王道的名像だとも思います。

そして、個人的に心惹かれたのは、こちらの白衣観音さん。鎌倉幕府三代将軍・源実朝によるものだそうです。

優しい線ですよね。慈悲のほとけ・観音さんそのものです。

実朝さんは、やっぱり将軍にはなりたくなかっただろうなあ。こんな優しい画を描いちゃう人は、政治はむかないでしょう。
三溪さんは、実業家であり蒐集家・アーティストであったという自分自身の属性から、本業が別にある人の画や書を集めていたそうなんですが、こちらはまさにその代表ですね。宮本武蔵が描いたという布袋図も二点ありましたが、それもすごく良かった。宮本武蔵の画って、ほんとすごいですよね。

つまりは、人間的魅力の凄さ、かも…

……そんなこんなで。

実にすごいコレクションでした。

お茶道具もすごかった、三溪さんがパトロンとなった現代日本画の巨匠たちの画もすごかった。横山大観、下村観山、安田靫彦、小林古径、名だたる巨匠は三溪の支えを得て大成したと言っていいでしょう。

彼ひとりに内蔵された文化力たるや。破格すぎて、言葉もありません。

最後になりますが、もう一つ。何とも晴れやかで微笑ましいこちらをご紹介したいと思います。

三溪が描いた、蓮の花の画です。

三溪は、蓮の花を好んで描いたそうなのですが、この画は63歳の時、日本画家の小林古径に贈られたものなんだそうです(古径は三溪の支援を受けていました)。

一般的にいったら、三溪さんはもちろんものすごく上手いですよ。でも、小林古径にですからね。超絶上手い小林古径に自分で描いた絵を贈るって、すごいですよ。

しかし、この画を見ると、三溪の人となり~朗らかさ、明るさが溢れていて、きっとなんのてらいもなく「なかなかよく描けたよ」なんて言って、無邪気にプレゼントしたんだろうな、と想像します。

古径もこれを喜んで、きれいに表装してもらって、三溪自身に箱書きをお願いしたそうなんですが、三溪はその表装の美しさをとても喜んだんだそうです。

なんか、いい話ですよね。

結局、教養や美意識の凄さだけじゃない気がします。三溪と言う人の魅力と言いましょうか。きっと三溪は、ものすごく魅力的な人だったんでしょう。だから良い人も良いものも集まってきたのではないか、と思います。

…さて、長くなってしまいましたが、会期は9月1日までだそうです。これまた油断してたら見逃しちゃいますよ!ぜひ、忘れずに観に行って下さいね。

(むとう)

青山翁の仏教への造詣の深さと、本筋を捉えたコレクションの凄みに改めて感動する時間/「優しいほとけ・怖いほとけ」展@根津美術館


明治・大正を生きた大実業家たちの文化力がすごすぎる

皆さん、もう行かれました?
根津美術館さんで開催中の特別展「優しいほとけ・怖いほとけ」展。
いや~。ほんと会期短いので、早めに行ったほうがいいですよ!見逃さないように!!

それにしても今夏は、偶然なのか何なのか、横浜美術館では「原三渓展」開催中ですし、ほんともう贅沢の極みですね。

青山(せいざん)翁こと根津嘉一郎(初代)は、山梨の豪商出身の実業家で、「鉄道王」と呼ばれます。原三渓は、横浜の大生糸商。二人の共通点は、高名なお茶人であり、文化に造詣が(ものすごく)深かった、という点でしょう。

私はこれまでも、横浜の「三渓園」には何度もお邪魔してますし、根津美術館も何度も拝見してますが、そのたびに溜息をついています。

今回も改めて庭の方も見てきましたけど、いやもう本当に、こんなすごすぎるコレクション、当時のカオスな状況がなかったら、到底無理ですよ。

何の説明もなく、シレッと置いちゃってますけども、この石塔マジやばい。この百済っぽい佇まい。ほれぼれします。

それにしても、こういうすごいものを、個人で買えるってどういうこと?と、溜息と共に思います。混乱の時代ならではだと思いますが、今ではできませんね。

この石柱も、ものすごくハイレベルな珍品と言っていいと思います。単に私が不勉強だからかもしれませんが、他では見たことないですもの。四角柱の一面には五輪塔、その隣の一面には大日如来(金剛界)が彫られてるんです。
五輪塔のかたちからして、中央文化に造詣の深い(と言うかど真ん中な)、ハイクラスな石大工さんの手によるもので、鎌倉中期くらいかなあ、と無責任に憶測してますが、どういうふうに安置されていたのか、まったくわかりません。標柱として辻に置かれたんだとすれば、極めて特殊な場所に置かれていたはずです。大日如来像を彫りだしてあるのに、五輪塔もだなんて、どんだけ強力なのかと思うんですね(大日如来も五輪塔も意味合いは同じです。どちらかで十分にその役割は果たすものなのに、なんで重ねた?と思うんです)。

……閑話休題。

一つ一つが、いわば「本筋的にすごいものばかり」なのですね。ほんとに、よくもまあ手に入れたものだと、改めて感心してしまうわけです。あの頃の実業家の皆さんには、文化の担い手であるという自負と教養、美意識や思想があったんだなあと思います。今の時代、こういう思想や美意識を持った実業家と言うのは、なかなかいないでしょう。

改めて青山翁の選別眼と美意識・思想の凄さを思う

石造美術的な鑑賞をしても、根津美術館はきりがないので、今回はこの辺にしまして、本題に入りましょう。

まず非常に個人的な感想で恐縮ですが、今回の展示を見て、私は自分自身の成長を感じました。密教の本を書かせていただいたことが、私にもう一つの目を開いてくれたかも、と思ったんです。

これまでは、仏像偏愛主義者なために、仏画をちゃんと見ていなかったんですね。しかし、今回は、仏画の方にも十分に注意を向けて参観できました。

先に結論を言ってしまえば、庭の石造美術と同じように、「こんな本筋のものを個人で買っちゃうなんて、いったいどうしたこと!?」という仏画が目白押し。特に密教系の仏画の豊富なことと言ったら…。

コマゴマと「おおおお」と呟きながら、ひたすらガラスにへばりつくように拝見しましたが、なかでも次の二点は、本当に本当にすごかった!

まずはこちらの「愛染明王像」〔鎌倉時代、重要文化財。写真は図録『根津美術館蔵品選~仏教美術編』より引用〕。

この図録の写真では、残念ながら、実物の凄さを全く認識できません!!実物の「愛染明王像」は、この写真の百倍すごいです。これまで見た愛染明王の中でも、けた外れに美しいのです!!ほんと、桁外れです!

そして、同様に桁外れがもう一つ。

こちらの「大威徳明王像」〔鎌倉時代、重要文化財〕!

これもこの写真の百倍蓮素晴らしい!信じられないくらい美しかったです。大威徳明王像の中でも、まさに傑作だと思います!!

他に、非常に印象に残ったのは、不動明王像数点です。あれだけハイクオリティのものが、台密系・東密系合わせて様々なパターンでずらっと並んでいる様は、じつに圧巻でした。すごかった~~。

ううううむ。思い返してみても、本当にすごかった。やはり、もう一度見に行ったほうがいいかもしれません…。

それくらい、今回の展示は壮観でした。仏教美術に少しでも興味があったら、絶対に見たほうがいいですよ!そして、青山翁のすさまじいまでの美意識と思想を堪能してください!

ぜひ、皆さんも足を運んでくださいね!!

(むとう)

京都、奈良、高野山へ――空海さんと密教を巡る旅!②乙訓寺


長岡京・乙訓寺(おとくにでら)

洛北の高雄山寺こと神護寺を含む「三尾」を尋ねた翌日、小雨の中を電車とバスを乗り継ぎ、乙訓寺へと向かいました。

JR京都駅から約10分ほどの長岡京駅で下車、バスでさらに15分ほど。「光明寺行」のバス、というのがゆかしいですね。
光明寺と言えば、浄土宗の開祖・法然上人さん縁のお寺。こちらもぜひ拝観したいところですが、なにしろ雨で足元も良くないので、今回はあきらめました。

バス停から、住宅街を10分ほど歩くと現れたのがこちら。

……あれ?

想像していたのより、だいぶコンパクトな…。
いえ、すみません、失礼な物言いになってしまいましたが、乙訓寺と言えば、例の早良(さわら)親王が幽閉されたお寺です。

早良親王は、桓武天皇の同母弟であり、皇太弟でしたが、無実の罪を着せられ、廃太子となり、非業の死を遂げられた方。
じつは、この早良親王という悲劇の人物が、後の京都(平安京)をつくりだしたと言っても過言ではないのです。憤死された後、桓武天皇の身の回りの大切な人が次々に亡くなり、親王の怨霊の祟りだと考えられました。
その祟りから逃れるために、長岡京を遷都し、平安京に遷ったとされています。まさに「御霊(ごりょう)」--日本史上特筆すべき怨霊のおひとりと言っていいでしょう。
当時の皇太子という高貴な容疑者を幽閉する場所として選ばれたのが、この乙訓寺なので、勝手に想像を膨らませてかなり大規模なお寺を想像してしまっていたのでした。

もう少しすると、ボタンが咲き乱れて多くの人が訪れるそうですが、この日は寒いし雨は降っているしで、ほとんど参拝客はいません。

左手に見える鳥居は八幡神のお社。右手奥が本堂になります。
じつは、この「八幡神」というのが、こちらのお寺のキモと言っていい存在なのです。

桓武天皇にまつわる怨霊と、鎮護国家の道場

ちなみに、空海さんは、神護寺の後、嵯峨天皇の勅命によりこの乙訓寺の別当になりました(811年)。「高雄山寺(神護寺)では不便なので」という理由だったらしいんですけど、それならもっと御所に近い場所のお寺でも良かったのでは?と素朴に思います。長岡京の故地にあるお寺なんて、ちょっと遠すぎませんか。
嵯峨天皇は、空海を別当に命じこの地を「鎮護国家の道場とした」そうなんですが、それはやはり、親王の怨霊鎮めと無関係ではなさそうです。
嵯峨天皇は、早良親王の甥にあたるのです。親王が憤死されたのは785年。嵯峨天皇は786年生まれですから、生前の交流はありえませんが、実母である藤原乙牟漏(おとむろ)皇后は、親王の祟りによって亡くなった(790年)と考えられていましたから、思いは切実だったことでしょう。

事件の時、空海さんは12歳でした。まだ故郷の讃岐国に居ましたが、この大事件を知らないはずがないのです。なぜなら、空海さんの母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)は、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(学問の師として使える役職)だったんですから、とても近い感覚でこの大事件について聞いていたはずです。
ちなみにこの伊予親王も悲劇の人。807年に無実の罪を着せられ自害して、のちに怨霊になっています。パターンは早良親王とほぼ一緒です。

いやもう、実に。

桓武天皇の周りは、怨霊だらけです。
そもそも、桓武天皇が皇位に就く際にも、異母弟で皇太子だった他部(おさべ)親王と、母・井上内親王も、これまたほぼ同じパターンで廃皇后・廃太子、憤死→怨霊化しています。

弘法大師が住まったお寺のご本尊は「合体大師」

こちらのご本尊は、その名も「合体大師」とおっしゃいます。
私はそのことを本田不二雄さんのご本『弘法大師 空海読本』(原書房)で初めて知りました。

「合体大師」??

なんですか、それは!?

改めてお寺のHPを拝見しますと…

ーー空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。(公式HPより引用)

むむむむ。

つまり、お顔は八幡大菩薩。肩から下は、弘法大師のお姿だと、そういうことですね?

しかも、八幡神の姿をつくろうとしているところに、本人が登場して「半分つくるよ」と言って、顔から下を彫り手であったはずの空海さんにしちゃった、ということですよ。なんと秘密めいて、暗示的なお話なんでしょうか。
(ご朱印も、もちろん「合体大師」です)

ちなみに、お像は秘仏ですが、今のご住職は一度だけ、阪神淡路大震災で被害を受けた本堂の修復のためにお像をご覧になったんだと、ご朱印を書いてくださった奥さまからうかがいました。
「お嫁に来てからは一度もあけていないから、私は拝観したことがないんですよ」
と奥さまがにっこり。今後は33年に一度のご開帳と決められたそうなので、生きてる間に一度拝観できそうでよかった、なんてお話ししました。気さくな優しい奥さまでした。

空海さんと八幡神の深いつながり

先にご紹介したご著書の中でも、本田さんは空海さんと八幡神の不思議なほど濃い関係について、考察されています。詳しくはぜひ本書をご覧いただきたいのですが、じっさい、あまりよくわかっていない私ではありますが、そもそも神護寺が「和気(わけ)氏」の氏寺であった時点で、「おや?」と思うわけです。

和気氏といえば、これまた古代史上大事件「道鏡事件」で大きな功績のあった、和気広虫(わけのひろむし)と和気清麻呂(きよまろ)姉弟のあの和気氏です。

道鏡事件をざっくりまとめれば、女帝・称徳天皇が、寵愛していた僧侶・弓削道鏡を天皇にしたいと考えたものの、宇佐神宮のご神託により、天皇にするのをあきらめた、という事件です。

この時、宇佐神宮に使いをして「道鏡を天皇にしてはいけません」というメッセージを持ち帰ったのが、和気清麻呂でした。

宇佐神宮というのは、八幡神のお社のことです。つまり、このご神託は八幡神が発したものでした。

ここでも、素朴な疑問が湧いてきませんか。

「誰を天皇にするかという大問題を、八幡神の意見で決めちゃうの?……なんで??」と。

もちろんこの疑問に関しては、学者の先生方がありとあらゆる仮説を唱えておられます。これまたざっくりとまとめてしまえば、天皇位を含め、権力をめぐる抗争が激しく行われている中、八幡神をトーテムとするグループのようなものがあり、何かこう、大きな力を持っていた一つのポイントだった、ということなんでしょう。
(八幡神は一般的に皇祖神とされますが、成り立ちからしてもともとは宇佐を中心とした地域を代表する尊格だろうと私は思っています)

ちなみに、和気氏は岡山のあたりの豪族で、別に八幡神をトーテムにする氏族ではありません。しかし、このご神託事件あたりから、どうも強い関係性を持つに至ったのではないか、と想像します。

そして、空海さんと八幡神とのつながりも、この和気氏とのつながりがから始まったんじゃないかな~、とこれまた勝手に想像してみたりして。
(上の写真は、神護寺にある和気清麻呂廟)

これまた何の根拠もない想像なのですが、私はこの清麻呂公と空海さんは、会ったことがあったんじゃないかと思うんです。

空海さんは、18歳の時(791年)に京の大学に入学しますが、その超エリートな道をあっさり捨てて、逐電(?)してしまいます。

この時、清麻呂さんは58歳。
清麻呂さんがなくなったのは、799年ですから、この頃は充分にお元気そうな年代です。

空海さんは大学をやめてから、入唐するまで10年余り、いくつか歴史的にわかっている事績はあるものの、はっきりとこういうことをしていたということが、わかっていません。各地の山野を巡り修行していた、東大寺や大安寺などの大寺にもなぜかしっかり出入りをして、経典を読み漁っていた……のかな?という感じ。

そんな時に、才気あふれる政治家・清麻呂翁に会ったりしてなかったかな??
いや、会っててもまったくおかしくないぞ!?

そんなご縁もあったから、唐から帰国し、京に入った時に、高雄山寺(神護寺)に入ったんじゃないのかな、と。

神護寺を出た後、住まったこの乙訓寺でも、和気氏との強い絆は続いていたのではないでしょうか。ご本尊の「合体大師」は、その象徴のような気がしてならないりません。

(むとう)

京都、奈良、高野山へ――空海さんと密教を巡る旅!①神護寺


空海さんの足跡をたどる旅へ

先週、約一週間かけて関西地方を行脚してきました。
今回のテーマは「特に空海さん(弘法大師)の『密教』を巡る」。

少々回りくどい話になりますが、人生を振り返りますと、
「日本文化の根っこに触りたい」というのが、どうやら私自身の変わらぬテーマなのですが、その日本文化の大きな根っこのひとつに「密教」があります。
私は、その大きな根源である『密教』を、仏像を通していつも遠くから(物陰に隠れるように)見てきました。

仏像を拝観するのに必要な、ごく初歩的な情報だけは一応知っていますが、あまりそれ以上突っ込まないようにしていた、というのが本当のところです。
そのあまりに深遠な世界ゆえに、腰が引けまくってました。及び腰になっていたのです。

しかし、仕事で密教に関わることをするかもしれなくなって、そうも言っていられなくなりました。

そこで思い立ったのは、まずは初歩の初歩。
密教を日本に持ってこられた弘法大師・空海上人の足跡をたどることでした。
時間の都合上、唐から帰国して京都に入ってから以降の代表的な関係深いお寺さんだけしかいけませんけど、まず現場に立ってみるというのが、やっぱり大事。そう考えました。

京都・神護寺からスタート

そんなわけで、スタートは京都の北西部にある神護寺さん。
神護寺さんは、和気氏の氏寺として成立しましたが、空海さんが唐から帰ってきたもののしばらく洛中に入らず、住まいしたお寺です。

こちらには、仏像ファンにとっても垂涎のお像がたくさんいらっしゃいますから、これまでも何度ともなく訪れています。

でも、今回は心の設定を「仏像拝観」から「空海さんの密教」に変更して、改めての拝観。面白いもので、そうなってくると見えてくる風景も何だか新鮮。目が行く場所もだいぶ違ってくるものです。

正直言って、この神護寺さんを拝観するだけでも、自分なりの小さな発見や気づきがたくさんありました。これこそまさに、現場にいってこそ感じる気づき。

実は、先週は本当にお天気が悪くて、神護寺に行く途中も曇天・時々雨。気温も低くて残念な感じだったんですが…

なんと、金堂(本堂)の前に進んだら、いきなり晴れました!!

能天気で楽天家の私は、「これはきっと歓迎してもらえてるってことだ!」といきなり気分アップ↑。

何しろ、この金堂の中には(そもそも)大好きな薬師如来像がいらっしゃるし、ね。好きな相手に受け入れたもらえたような、そんな気持ちになってたちまち幸せになり、「この旅は来てよかったってことなんだ!」とほくほく。

これは、企画成功もお祈りして、カワラケ投げるべし!ということで、お馴染みカワラケ投げ。目いっぱい厄除けします!

境内のいちばん奥の地蔵院まえから、錦雲峡と呼ばれる峡谷にこのカワラケを投げますよ。私は、なかなか上手に遠くまで飛ばせたので、茶屋の女将さんに褒めてもらえました。ほくほく。

そのあと、やっぱりせっかく来たからには…と、西明寺、高山寺と巡って、ホテルに戻りましたが、 やっぱり行ってみてよかった。

というのも、この風景。

金堂の後方の山上に、神護寺中興の祖でもある文覚上人のお墓があり、そこから見えるのは、京の街全体です。

なるほど。
この立地、大事ですよね。

山深いところになぜ?と思ってしまうのは、現代人の感覚かもしれません。

この場所からは、京都がよく見えますし、山をいくつか越えれば若狭の国、良港に恵まれた国際都市・小浜に出られます。
それに、素人目ではありますが、池の水の色を見ても土壌に石灰が多く含まれているように見受けられましたし、多くは赤土で鉄分も多そうな感じでした。
鉱物資源にも恵まれてる山系なのかもしれません。

こうしたことを、肌で感じられるのが、現場に立つことの意味でしょう。理屈じゃなくて染み入ってくるものがあります。

それにしても幸先のいいスタートでした。

(むとう)

②日本的解釈とネイティブ解釈、こんなにも違う!!?/『反骨のブッダ』高山龍智著(コスモ21刊)


翻訳すると、当然生じる違い

2500年前を生きたブッダの言葉を、弟子たちがまとめたのが初期仏典なわけですが、それらはサンスクリット語やパーリ語で表記されています。

日本でも、中村元先生のような偉大な仏教学者が初期仏典を翻訳してくださってますので、私たちも読むことができるわけですが、単純にそれらを読むだけでも、ブッダが言っていることで感じる印象と、なんとはなしに仏教に対して持っていた印象が違うことに気づきます。

私が読んだのは、本当にその一部にすぎませんけども(その限られた経験で物を言うのはどうかと思いますが)、ブッダは、ものすごく合理的で、謎めいたことを言わない人だったような感じがするんですよね。

確かに、翻訳ものを読むと、原本と大分印象が違う、なんてことはよくありますよね。翻訳した人の解釈や翻訳言語の特性、文化的個性が、どうしても出てしまうからでしょう。仏典は、サンスクリット語やパーリ語の仏典を、中国で漢字に翻訳したものが日本に到来しているものがほとんどですから、原典とだいぶ違くなってるだろうということは、想像に難くないわけです。

さて、本書で高山さんは、その感覚をもう一歩進めよう、とおっしゃいます。

時代は変わった。
サンスクリットやパーリ語もヒンディー語ととても似ているので、翻訳機を使えば解読だってできる。つまり、原典を直接読むことだって可能なんだよ、と。

「原始仏教ではなく、『言語』仏教へ」

「仏教経典を記述したパーリ語やサンスクリット語は、インドの公用語たるヒンディー語と流れを同じくする言語であり、インド人でも多少の学習は必要となるが、現代日本人が『枕草子』を理解するよりはずっと垣根が低いと言える」(P22より引用)

このくだりを読んで、思わずおおおお!?と声を上げてしまいました。
そのくらいの段差?!たいして遠くないですよ?!

日本語でも、古語にしかない言葉もありますが、今も昔も変わらぬ言葉もあります。あるいは、使い方や意味が、時代によって違う言葉もありますね。
わからない言葉もあるけど、なんとなくわかります。

例えば、「サンガ」という言葉。

ヒンディー語を母語としている人は、この言葉は「共同体」という意味の言葉なんだそうです。宗教的な言葉というよりも「団体」といった意味で今も使われるごくごく一般的な言葉。

ところが、古い時代に、漢字では音訳として「僧伽」とし、意味合いとしては「侶(パートナーの意味)」で補って「僧侶」と翻訳。これで、「共同体」という意味と音を表現したわけなんですが、日本ではそれがいつの間にか一人の出家者のことを指すようになっています。

この言葉ひとつとっても、だいぶ印象が違いますね。

最も基本的な言葉でさえ、そんな感じなわけですから、膨大な言葉で形成されている経典では推してしるべしです。

「仏教」とは一体何なのか

本書を拝読すると、ブッダが生きた時代やインドならではの文化的状況を背景に感じながらも、素直にその言葉の意味を知ることでもって、ハッとさせられます。

しかし、ブッダの死後、何百年もたってインドを遠く離れ、いろんな環境の中である意味「異常発達を遂げた」仏教の枝葉について、どう考えたらいいんだろう、と戸惑いを覚えずにはいられません。
長い歴史の中で、各地・各時代の偉人が格闘して得てきた果実が、もしブッダの言っていたことと異なることであっても、それはそれでやっぱり大切な宝物なのではないのかな、と思います。

私のポンコツ頭で考えてもよくわからないのですが……

そうして格闘し、のたうち回って真理に近づこうとするそのフロー自体が、最も大切なことなのかもしれないな、と思います。そんな種を、ブッダは世界中に蒔いたんだ、と。

本書の中で、高山さんがブッダが説いたことをこんな風に言っておられます。

「問題や悩みがあれば、自分で解決する人になればいい」
「人類同士が、隣の人との友愛によって、自ら救済されよ」

私はそれを自分ふうに言い換えて、胸に刻んでみました。

誰かに救ってもらうのではなく、自ら救うのです。
隣の人のために何かしようと思う気持ちが力になって、自分を救うのです。

……どうしたらいいのかわからない、と思いながら日々生きておりますが、
そんな言葉を土台に、日々を重ねていきたいと思います。

(むとう)

①ブッダがしようとしたこと――その言葉の本質とはいったい何か/『反骨のブッダ』高山龍智著(コスモ21刊)


現代インドで進行中の「仏教復興」

なかなか体調が戻らず、この週末も剣道のお稽古はお休み。
仕事も少々落ち着いてきたので、新年にできなかった掃除やら、資料整理を細々としつつ、自分のための読書です。

つい最近発売になった『反骨のブッダ』をさっそく拝読しました。

著者の高山龍智さんは、日本国内でいえば、浄土真宗の僧侶ですが、インド仏教の最高指導者・佐々井秀嶺師に師事し、日印仏教の橋のようなお仕事をされているお方だそうです。

少々話が遠回りになるかもしれませんが、私は以前、サンガラトナ・法天・マナケ師の『波乱万丈! インドの大地に仏教復興』(春秋社)という本を拝見して、インドの社会状況と、インド仏教を再興しようとして奮闘しておられる方々の活動を知りました。

数年前、バンコクに住んでいるときに、印僑(インド系商人)の人たちがたくさんいるので、インドに詳しい当時の連れ合いにいろいろ教えてもらいましたが、ひとことで言うと、インドでは『カースト』がいまだに現役バリバリの制度であるということを目の当たりにして、本当に驚きました。「そんな構造の中で生きるだなんて、なんて大変なんだろう、つらい」と、溜息と共に思ったのです。

そんな中で法天師の本を読み、なるほど、インドで仏教が復興されようとしていることには、こんなにも必要な事情があるんだな、と思わず黙り込んだ覚えがあります。

ちなみに、法天師は、インドのアウトカーストに生まれ、日本山妙法寺にて、7歳の時に自ら進んで得度。9歳の時に比叡山延暦寺に留学して、修行したという方です。この本を読むと、インドに仏教を復興させたアンベードカル博士についてや、カースト制度への理解が早いと思います。

「カースト」という恐ろしい物語に立ち向かった人、ブッダ

さて、この「カースト」なんですけども、誤解を恐れずに言えば、「征服民族が自分たちが永久に支配者階級であるために有利であるように、仕掛けた壮大な罠(物語)」だと思います。

今から3000年も前の話です。
でも、その物語は、波はありますけれども、昔もそして今も生々しく有効だということです。

約2500年前にも、この罠をどうにかしたいと考えて立ち上がった人がいました。それこそが、私たちもよく知る「ブッダ」なのです。

一般の日本人は「ブッダ」と聞くと、何かこう、優しそうな、すべてを包み込んでくれ、許してくれそうなイメージがあるという人が多いのではないかと思いますが、もちろんそうした人間的大きさはあったでしょうけども、それよりも何よりも、「改革者」としての活動家であったというほうが、主だったと考えたほうがいい。

それは、インドで何千年も続いてしまっている、恐ろしい呪いのような社会構造を知ると、わかります。
そんな状況をどうにか変えたいと奮闘したのがブッダであった。そして、の戦いは今も続いている、ということなのです。

そうしたインドの社会状況、そして自然状況などを知らないと、ブッダの言葉を読み違えてしまうのも、また仕方がないことでしょう。

私たち日本人が暮らす日本列島は、やはり穏やかでのんびりしているのです。
そして絶えず変化していくことを前提にしている文化を持っています。

季節は大きく移り変わり、様々な動植物が現れては消えてゆく。どんなに偉い人でも、ずっと富んでいるということはないと考える。実際問題、自然災害が起これば、富者も貧者も同じく死んでしまうし、立派な建物でも火事で焼け、あるいは津波に呑まれてしまう。

このような背景を持つ我々の文化と、「魂は永遠に変わらない、死んでも終わらない。暑さはずっと続くし、砂漠はずっと砂漠」といった文化では、同じ言葉でも捉え方が違うのです。

その前提をもって、「仏教」の中心概念を、やさしく読み解いてくれるのが本書『反骨のブッダ』だと言えると思います。

(続く)

2017年は「慶派イヤー」!⑧迫りくる慶派の奔流!この究極の空間に在る歓び。『運慶』展@東京国立博物館(9/26~11/26)


やっぱり、『運慶と慶派』展という名前のほうがしっくりくるかも…

円成寺さんと、願成就院さんのお像について語りだしたら止まらなくなってしまった私ですが、全体的なお話もちょっとだけ…

今回の展示のストーリーとしては、運慶の生涯の時間軸を大きな縦軸にしています。
「運慶前夜」とも言える慶派の始祖・運慶のお父さんである康慶のお仕事、そして、さらに慶派前夜とも言える仏像の数々などから始まり、運慶自身の仏像、運慶がプロデュース・総指揮をしたであろう仏像、そしてそのチームの中で綺羅星の如く、運慶の息子たちの仏像……と進行していきます。

正直言って、運慶がほとんど一人で作ったものもありますが、監督だけしたであろう仏像も多いので、『運慶と慶派』展という名前のほうが、実情に合ってるように思ってしまいます。

このあたりは、あえて『運慶』とされたんだろうとは思いますが、せっかく担当した仏師の名前がわかってるんだし、それはやっぱりそう記してもいいんじゃないかなあ、なんて素人考えで思うわけです(図録にはちゃんと書かれてますけども)。

例えば、このあまりにも有名な「無著菩薩像」@興福寺。
こちらの図録の表紙にも登場されてますが、こちらは、図録にも書かれていますけれども、〔総指揮:運慶、制作:運賀〕って感じなんですよね。

実際に作ってるのは、運慶の6名いる息子のうちのひとり・運賀だとされているそうです。もちろん、運慶の指揮でもって行われてますから、運慶作、と言っていいのかな?……でも、やっぱり、せめて「運慶・運賀作」ってクレジットでも良いのではないかしら…。なんて思ってしまうのでした。

もし、「総指揮」した人を作者とする、というルールを貫くなら、円成寺さんのお像も「康慶作」となってしまいますもの。それはなんか違う、と思いませんか?

まさに怒涛! 迫りくる慶派の奔流!!

そんなわけで、今回のみどころは運慶一人ではありません。運慶を中心として、父・康慶、息子6人の関わった仏像がドドンと集結していますので、それがまた怒涛のように次から次へと押し寄せてくるのです。
ぜひその奔流の中に身をひたして、次はあり得ないかもしれないこの究極の空間を楽しんでいただきたいのですが、あえて、個人的に特に注目したものを挙げてみますと…

なんと言っても、長男・湛慶作の高知雪蹊寺の「毘沙門天三尊像」と、高山寺の「子犬」像です!!
雪蹊寺には、私も幸運なことに二回、こちらにお邪魔したことがあります。とはいってももう10年以上前の話。久しぶりに毘沙門天立像に拝観できて嬉しかったです。やっぱり素晴らしいですね!

(図録P200より引用)

運慶の毘沙門天立像@願成就院を意識していると思われますし、そういう意味ではやはり運慶には及ばないのですが、でもこの毘沙門天さんは、湛慶さんの毘沙門さんです。湛慶さんのお像を見るとなんだか「清明」という言葉がひょんと浮かぶのです。
お父さんの偉大さが極め付き過ぎて、どうしても比較されてしまいますが、この爽やかさ、清らかさ、明るさは、やはり特別な個性ではないかと思います。

(図録P204より引用)

湛慶さんの個性を特によく感じられるのは、高山寺の「子犬」像ではないかと思います。高山寺さんも大好きで、何度も拝観していますが、明恵(みょうえ)上人のために作られたというこの「子犬」像は、とにかく可愛い。子犬のフクフクとした足元、無邪気にみつめてくる愛らしい瞳、くるんと巻いた尾っぽ。本当に愛らしい。

こちらは仏像ではありません。あくまでも、「子犬」の像なのですが、高山寺の開祖・明恵上人の慈悲深いエピソードと相まって、何とも言えぬ存在感を感じます。
こういう優しげな雰囲気が、いかにも湛慶さんだなあ、と思うんです。

隣に展示されている「神鹿」像@高山寺もとても可愛いです。明恵上人は春日社(大社)を篤く信仰していましたが、その春日社ゆかりの神鹿です。こちらも、神秘さというよりは、鹿本来のしなやかな美しさ、可愛らしさが先に立つ像ですね。

湛慶さんは、きっと優しい人だったんだろうな~。

運慶さんのような、スーパー父さんの下で同じ仕事をすることになって、さらに五人の弟たちをまとめながらの…って、本当に大変だったろうな…。

ちなみに、有名な三十三間堂の中尊(丈六千手観音菩薩坐像)は、湛慶さんの手によるものです。三十三間堂は、慶派だけでなく、院派や円派など当時の仏師大集結で建立されました。考え方も違う、個性的な仏師たちをひとつにまとめ上げるなんて、とてつもない大事業だったことでしょう。しかし、湛慶さんはやり遂げました。それだけ人徳のある人だったんでしょう。

中尊に在る銘によれば、その時、83歳。……まさに超人!!

今回はちょっと珍しいものとして、その中尊の光背にある「三十三応現身像」のうち、迦楼羅像、夜叉像、執金剛神像の三体を取り出して、出品されています。

これまでにも、光背にある状態は見てきたはずなのですが、お堂にある状態ですとお花や影の塩梅などで、光背の細部まではさすがによく見えません。こんなふうに近くで見られる機会は、なかなかないでしょう。ぜひ、見逃さないようにしてくださいね!

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さて、長くなりましたが、運慶展のレポートはこのあたりで。
11月1日ごろに、二回目を観に行こうと思っています。
何度拝見しても、また感動するでしょう。それが、運慶の、ひいては仏像の魅力なんですよね。

『運慶』展 東京国立博物館(9/26~11/26)

2017年は「慶派イヤー」!⑦とにもかくにも願成就院の毘沙門天立像、円成寺の大日如来坐像…!『運慶』展@東京国立博物館(9/26~11/26)


鎌倉時代の支配者・北条得宗家の氏寺、願成就院

仏像というと、どうしても関西といった印象が強いかもしれませんが、運慶の仏像で最も重要なお像の数体は、東日本にあるんです~!

その中でも最も重要なのは、願成就院です!!(と言いきっていいですよね?!)

願成就院は、伊豆半島の付け根、駿豆線というステキなローカル線の韮山駅から歩いて15分ほどのところにあります。

こちらには、運慶の真作とされ、国宝指定になっている仏像が、なんと5体もいらっしゃるんです!!
それにしても、なぜここにそんなすごいお像が?…と思われるかもしれませんが、この辺は、源頼朝の舅・北条時政の領地で、願成就院のスポンサーは時政だったんですね。ちなみに、頼朝の配流先である「蛭ヶ小島(ひるがこじま)」も、現在の願成就院から歩いて20分ほどのところにあります。

そんなわけでして、願成就院は、北条家のゴッドファザー・時政開基の特別なお寺。鎌倉幕府の支配者・北条得宗家の氏寺のようなお寺だったんです。戦国期の始まり頃(1491)に燃えてしまうまでは、そりゃもうゴージャスで、広大な大伽藍だったそうですよ。

運慶の「リアル」とは…

前回お話ししましたが、小学生の頃にこちらの仏像に出会ったことが、私の仏像人生に始まりとなりました。今回はその五体の中から一体だけの登壇となっています。それが、幼い私が最も釘付けになったお像、「毘沙門天立像」です。

このお像の凄さというのは、何度拝観しても、見慣れたつもりでもう一度見ても、あらためて、感動してしまうというところです。
すごい仏像というのは、まるで山や大木や滝や海のように、そこに在るのが自然である、…と思わせてくれるお像だと私は思っているのですが、このお像はまさにそんなお像だと思います。この一体が、仏教の教えの具現化であり、宇宙、自然事象その物なんじゃないか、と。

よく、運慶を褒めるひとつの表現として「リアル」という言葉がありますが、そのリアルさは、そういう意味でのリアルさだと思ったほうがいい、と私は考えます。
「仏」は超絶した存在です。その超絶した存在を、いかに「超絶した存在」として「リアル」に造り上げるか。誰も見たことがないその姿をいかに「本当の存在」として造り上げるのか、そこが、僧侶でもある仏師の理想とするところでしょう。ですから、「より人間らしく、写実的に」。そういう意味でのリアリティの追求ではないと思うんです。

確かに、人体の研究を良くされていただろうし、「まるで生きている人間のような」表現をうまく取り入れてると思いますが、しかし、実際に運慶作の仏像に拝観しますと、「人間っぽい」とは思いません。こんなすごい存在を、人間の手が生み出しちゃったのかーー!と驚くばかりです。
特にこの願成就院の毘沙門さんは、何度見てもそう思うんです。
今回も、会場で拝観して、何度も何度も、そう思っては溜息をつきました。

処女作、円成寺の大日如来坐像の「ひとり立体曼荼羅」感

もう一体、初めて拝見した時に、「ひええええ」と思った仏像は円成寺さんの大日如来坐像です。

実は、このお像に初めて拝観したのは、ごく最近。なぜか拝観したことがなかったのですが、大先輩Wさんのお導きで、ごくごく近くから拝観させていただく機会をいただきました。

その時に感じたのは、このお像を中心として果てしなく広がっていく「宇宙」!

すみません、わかりにくい表現で。

でも本当に、意識が広がって宇宙の中に自分ががあるようなそんな感覚がしたんです。
大日如来という存在は、仏教の中の「密教」という教えがあるんですが、その密教が描き出す世界観で、宇宙の中心にいるとされる仏さまなんですね。

このお像は、一瞬にしてその難解な教理を「感じ」させてくれました。
難しくって、経典を読んでも、私に理解できるとは思えませんが、このお像はそのとてつもない世界がどうも「在りそう」だ、という実感を感じさせてくれたのです。

す、す、すごい。
これぞ、仏師の目指す表現の世界なんじゃないのかな…と!

この大日如来坐像を造った時、運慶はまだ20代後半です。お父さんの康慶に見守られながら、一人で作り上げた初めての一体と考えられています。
それにしても、すごい。こんなにすごいお像をそんなに若くして作ってしまうとは…。

「最初の作品に、すべてが現れるということはよくあることだよ」

興奮してオロオロする私に、ご一緒いただいたWさんは、そう言って笑いました。
Wさんは、数多くの伝説的な展覧会を企画された大御所。美術について、大変な見識をおもちの凄いお方です。

「だから前から言ってるでしょ、ぼくはこちらのお像が運慶の中でも一番好きだ、って」

わ、わ、わ、わかりましたー!Wさん!
私も、ものすごく納得しました―!

そんな興奮状態で、うるさいほどふんふん頷きながら、円成寺さんを後にした私なのですが、今回も、このお像に再会できるのを、本当に楽しみにしておりました。

今回、このエポックメイキング的なお像は、展覧会構成の第一章「運慶を生んだ系譜」の中で、初めて登場する「運慶作」のお像として登場していました。

正直言って、お寺で拝観させていただいた時とはかなり印象が違います。展覧会でのお顔と、本来の場所でのお顔はびっくりするほど印象がちがうということは、よくあることですが、このお像はそれが顕著でした。
できれば、また円成寺さんで拝観したい、そう思ってしまいましたが、それにしても素晴らしいお像であることには変わりはありません。
(続く)

『運慶』展 @東京国立博物館