惟宗(これむね)氏のルーツ〈秦氏〉を考えてみる
対馬を長らく統治した「宗氏」をさかのぼると、惟宗(これむね)氏に行きあたります。この「惟宗」と言う氏族は、秦(はた)氏系の氏族である、と辞書などに書いてあります。
そこで、「出た!秦氏!」と思わず浮足立ってしまうのは、歴史ファンとして仕方ないですよね。
秦氏と言えば、京都太秦(うずまさ)の…と思い浮かべる人も多いかと思います。『新撰姓氏録』などによれば、「秦の始皇帝の末裔で、百済からやってきた」とということですが、様々な説があるようです。でも私は、新羅系だろうな、と思っています。
――なぜならば。
秦氏の氏寺・太秦寺の仏像が、〈新羅系〉のお顔をしてるからです!(単純!)
数年前、韓国の仏像や仏塔を見て廻ったことがあるんですけども、その時に、慶州を訪ねて、仏国寺、石窟庵で8世紀の仏像のお顔を拝見した瞬間、「あっ」と腑に落ちちゃいました。ああ、秦氏は新羅系だわ、と。
それまでは、秦氏というのは百済系だというけれども、なんかちょっと違うよなあ、やっぱり朝鮮半島に移住した中国系氏族だからなのかしら…、なんて思っていたんですが、あ、やっぱ新羅系、と確信してしまったのです。
(写真:仏国寺大雄殿。文章と関係ないですけども、この石燈籠の素晴らしさと言ったらもう!見てるだけで興奮してしまうレベル)
(仏国寺でとにかく見るべきなのは、この多宝塔と…)
(写真:そして釈迦塔。この塔二基と石灯籠、および石造の構造物は774年創建当時のものですよ。新羅仏教美術最盛期のものですよ。そりゃもう、素晴らしすぎて石造美術ファンなら鼻血出ちゃいますよ)
何をもって美とするかは、固有の美意識そのもの
美しさに対する好みというのは、時代の趨勢・流行もありますが、本質的にその氏族(今風に言えば民族)の特徴が出やすいと思います。
特に仏像のお顔には、その美意識のすべてが注力されますから、明確に出るように思うのです。
石窟庵のお像・釈迦如来のお顔は、紛れもなく、太秦広隆寺 (こうりゅうじ)の有名な「弥勒菩薩半跏思唯像」のお顔の方向性だったんです。
写真では何度も見ていましたけど、そんな感覚は全くなかった。仏像を見るときに、こうしたことはよく起こります。写真ではなかなかこの「美の空気感」みたいなものは、感じられないんです。
やはり実際に拝観しないと分からないものなのかもしれません。
有名な秦河勝(かわかつ)が新羅仏教の信奉者であったことは、有名な話ですが、それからしても、やはり新羅系ですよね。信教のチョイスと美意識は、ルーツと密接に関係しているだろうと思うからです。
「海」を表わす言葉「ハタ」、「アマ」、「ウミ」
さて、この「秦」氏の「ハタ」。これはやっぱり、「海」のことを指してるんじゃないでしょうか。
古い日本語では、海を「ワタ」と言いました。海神の名のひとつに「ワタツミノカミ」があるように、「ワタ」は海のこと。朝鮮語の「パダ」とほぼ一緒ですね。
ちなみに、海を表わす古い言葉に「アマ」があります。「天」も「アマ」といいますが、ある瞬間に天と海の境が無くなるような体験をする海洋民族ならではの言葉遣いな気がしますね。
(写真:対馬の北部、千俵蒔山近くから臨む海。「天(アマ)」と「海(アマ)」の境目のあわいが美しい)
そういえば、今最も一般的な「海(ウミ)」はどうなんでしょう。いつから使われていたんでしょうか。
『国語大辞典』の用例を見てみますと、「宇美(ウミ)」として、古事記に登場しています。こちらも、「アマ」「ワタ」と同じくらい古い言葉のようですね。
しかし、アマとワタと決定的に違うと思われるのは、淡水も「ウミ」というところ。
『全文全訳古語辞典』には、「広く水をたたえている所。海洋のほか、湖・沼、大きな池などをもいう」とあります。
語源も、何だか果てしなくあるんですが、その中のひとつに「大水の意」というのがあります。なんとなくこのあたりが妥当なのかな、という感じですね。つまり、「ウミ」は、「水がたくさんある場所」のことを表現した言葉のような感じですね。
そう言えば、神さまの名前で「ウミ」とつく神さまはいましたっけ??
思いつかないですね……。
「惟宗」が、どうして「宗」氏になったのか
さて、その秦氏の一族である「惟宗」氏は、もともとは讃岐国に住む、法律に明るい一族だったそうです。
その惟宗氏が、鎌倉時代になって、九州の守護・少弐氏に使えるようになったのはなぜかはわかりませんが、いずれにせよ、「海」を通じて何か繋がっていくものがあったのかもしれません。
そこで、ですよ。
その「惟宗」氏が、文永の役には、「宗」氏と名乗っているのですが、なぜなんでしょう。一字の名字にしたのは、中国・朝鮮との外交上の利便性もあるのかな、と思いますけど、しかしなぜ「惟(これ)」氏じゃないのかな、……という素朴な疑問なのです。
例えば、藤原氏なら、中国風に名乗るときは「藤(とう)」氏ですもの。「原(げん)」でもいけますけど、あえて後ろの漢字はとらないんじゃないかな、と。
だのに、なぜ「惟」ではなく、後ろの漢字「宗」を採用したんでしょうか。
そもそも、もし本当の「惟宗」氏であれば、本姓は「秦」なんですから、そう名乗ればいいわけです。
#もっとも、その後、宗氏は「平」氏の末裔であると自称しますので、本姓の名乗りは「平」になっていきますけども……
そこで、ふと思っちゃうわけです。
この「宗」って、やっぱり「ムナカタ」氏の「ムネ」ってことなんじゃないのかな、って。
前回もお話ししましたが、1408年まで、宗氏の本拠地は宗像郡にありました。素直に考えて、やっぱり、宗氏は宗像氏の一族ですよね。
そうなると、本姓が秦氏である「惟宗」氏の名乗りもなんか怪しいな。
意味的にうまくはまるし、秦氏と宗像氏は関係も深いしって感じで名乗っちゃったのかもしれませんよね(中世ならではのあれ)。
ちなみに惟宗の「惟」の意味を調べてみますと
「……隹は鳥占(とりうら)。その神意を示すことを唯といい、神意をはかることを惟といい……」
とあります。そんな意味の言葉を「宗」の前にくっつけてると、なんだかやけに意味深で、ちょうどよすぎる感じになります。「ムナカタの神の神意をはかる」、そんな意味からしても、いい名乗りです。
妄想全開ですが、この仮説、けっこう面白い線ではないでしょうか。
(続く)
対馬の宗家末裔の者ですが、願わくは「ムナカタ族」の縄文海人族の系譜であれば嬉しいのですが・・
弓月の君を船に乗せて玄界灘を渡って「倭」に連れてきた一員に「ムナカタ族」もいたでしょうから、どちらにしても縁深いものがあるようです。
歴史はミステリアスで面白いですね。
コメントありがとうございます。私の妄想のようなお話に、宗家の方からコメントいただけるとは、光栄です!
対馬は実に魅力的な場所ですね。どの時代の海人族にとって最も重要な場所で、聖地だったんだろうなあと感じました。また訪ねたいです^^