鶴が城を後にして、私たちは、飯盛山へと向かった。
飯盛山はこんもりとしたかわいらしい山だ。「お椀にご飯をもったような」形が語源だったというのもなるほどという優しい雰囲気で、まさかそんな悲劇の現場だとは思わないだろう。
白虎隊についてご存じない方もいらっしゃると思うので、ここで簡単に彼らの概略をお話ししておきたいと思う。
白虎隊は、 旧幕府軍と新政府軍の間で起こった戦い、戊辰戦争で、会津藩に編成された部隊のうち、16~17歳の武士の子供たちで構成された部隊のこと。
会津藩は、旧幕府軍の中心をなしていたため、新政府軍によって徹底的に破壊されたが、白虎隊のうち19人はその戦いの中で、集団自決を遂げたのだ。その痛ましい死を多くの人が悼み、現在も多くの人が追悼に訪れる。その自決の地になったのが、この飯盛山なのである。
飯盛山に入る前に、滝沢本陣に立ち寄った。
戊辰戦争の際には、容保(かたもり)公が出陣し、こちらが本陣になったそうで、その当時の弾痕などが生々しく残っていて、戦いの激しさを偲ばせる。
飯盛山へはここから歩いて3分ほど。
住宅地を歩いて行くと、白虎隊が猪苗代湖から帰ってくるときに通った洞穴「戸ノ口堰(とのぐちせき)」が見えてきた。洞穴といっても人工のもので、猪苗代湖から、会津市内に水をひくために作った水路だという。
こんなに狭くて冷たい水の中を10代の少年たちがこえてきたのかと思うとそれだけでも、切ない気持ちがわいてきてしまう。
江戸時代の「武士」と聞くと、私たちとは違って戦場に赴けるんじゃないか、と思ってしまうが、その考えはたぶん間違っている。
江戸時代は、200年あまり大きな戦がなかった時代だ。武士としての教育は受けていたが、「平和ボケ」している私たちと大差はない。
大義のため、とはいえいきなり人を殺せと言われる。または簡単に人が殺されていく状況を、平然と捉えられるわけがないじゃないか、と思う。しかも彼らはまだ10代の少年たちだった。今の10代より大人びていたかもしれないが、少年は少年だ。実は彼らが自決したのは、判断間違いがあった(城下町が燃えている火を見て、鶴が城が落城したと勘違いした、という)という説がある。が、もしそうだとしても、この状況下で正しい判断ができたかどうかは、大人だって難しい。
飯盛山の中腹に、白虎隊の墓はあった。遠くに鶴が城を望むことができる。
実は、この場所に墓をつくったのには、松江豊寿さんが関係している。
私たちには想像もできないことだが、戊辰戦争後、会津は「逆賊」として、新政府から差別された。戊辰戦争で亡くなった人たちを悼むような行為もおおっぴらにはできなかったのかもしれない。
『二つの山河』(中村彰彦著)によると、白虎隊の墓は、当初は山のかげの狭いところにあったという。しかし、東大総長・京大総長を兼務した理学者・山川健次郎氏が、それを遺憾とし、鶴が城が見える南側の斜面に墓地を移築したいと松江さん(当時市長)に提案した。
松江さんは、直ちに工事着工を決意した、という。
坂東俘虜収容所での松江さんの振る舞いからしたら、これは当然のことだろう。白虎隊の死を悼むことは、そのほかの多くの無名の会津人を弔うことに通じる。彼らの死を「判断違いの」死、ととらえるのではなく、会津人として振舞ったものとして追悼する。これは、誇りを持って前に進むためにも必要な行動だったと思う。
そして現在。
遠くには復元されて鶴が城の天守閣が望める、明るいこの飯盛山の斜面に白虎隊は祀られているのだ。
私たちがここにいる間にも、多くの人が訪れ、何とも言えない表情で手を合わせていた。直接会津に関係なくても、日本人として彼らの生きざまには忸怩たる思いが湧く。
私も、ただ黙って手を合わせ、頭を垂れた。
前回ご紹介した「あいづっこ宣言」がされた土地には、こういう悲劇の物語がある。あいづっこ宣言の、「5.会津を誇り、年上を敬います」には、自分たちの足元にあることを知ろう、ということも含めているんだろうと思う。つくづく、会津はすごいところだ、と思った。
お墓の前には、かわいい柴犬が番をしていた。人懐こく寄ってきてペロペロと手を嘗めてくれた。「番をして」いるというよりは、神妙な表情になった参拝客を慰めてくれているような気がした。なでろなでろ、と体を押し付けてくる柴犬。私も彼の優しさに慰められ、温かい体をなでながら、いつの間にか笑顔になっていた。
なんとなく、そんなことも、会津らしい気がしてジンワリと心が温かくなった。さあ、もう大丈夫ですから笑ってください、と逆に気を使われてしまったような…。少しだけ涙が出た。
(「会津と会津人」・終)
はじめまして。
飯盛山の飯盛と申します。
その柴犬の名前は翔です。
飯盛家の柴犬で、時々墓守をさせております。
飯盛山まで足を運んで下さり有り難う御座います。
白虎隊さんを最初に仮埋葬した、5代前のお祖父ちゃま飯盛山山主飯盛正信が村の有志と共に夜な夜な骨を拾い集め、翔のいた場所にあった大きな三本の杉の木の下(当時は木は無かった)に埋めました。当時は、会津人は人間では無く虫けら以下、要するに『埋葬禁止令』がでていて、皆怖くて埋葬出来なかったのです。それを見かねた正信祖父が埋葬しわからないようにしましたがバレてしまい『戻せ』との命令に背いた為に捕まり、重い処罰をうけました。後に会津の汚名が返上されたあとで正信祖父も釈放され、飯盛家一個人の私有の山のままだと白虎隊も肩身の狭い思いをするだろうと、山のほとんどを松平容保に献上して、今の墓があります。表向きの話とは違うことが沢山あります。白虎隊自刃の本当の理由、洞門に水はさほど流れていなかったこと、白虎隊の自刃の地とお墓が別な理由、飯盛山で自刃したのは本当は16名だったことなど沢山あります。よろしければ、いつでも聞きにいらして下さい。
五代目白虎隊墓守より
飯盛尚子様
書き込みありがとうございます!光栄です!
当サイト編集長のムトウと申します。
#この文章執筆時の名前、イチモリムベ、は実はペンネームでして…紛らわしいことしてすみません
柴犬くん、翔くんとおっしゃるんですね!
ひょっとして、柴犬くんのそばにいらしたかたではないかと推察しておりますが、違いますでしょうか?
貴重なお話ありがとうございます。
正信おじいさま、素晴らしい方ですね。
なんと、ご立派な…
すごい、としか言いようがありません。
まさしく会津人の鑑!いや日本人の鑑です。
ぜひ今度、お話を聞かせてください。
正確なお話をぜひ知りたいです!
ムトウ様
しょっちゅう独りぼっちにしているので、その時にいたのが私なのかはわかりませんが、またいつでもいらして下さいませ。(*^_^*)
ありがとうございます!
ぜひこれを機会によろしくお願いします!