2017年は「慶派イヤー」!②快慶は、まさに「祈り」の人

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運慶と快慶、どちらが好きですか

以前、N山先生の講演会を聴講した際のこと。N山先生が、
「皆さんは運慶と快慶、どちらが好きですか? 好きなほうに手を上げてみてください」
と質問されました。

……こ、これは!
難しい質問ですよ…!!

(これだけすごい二人の仏師、正直言ってどちらがいいとか好きとか、そういう次元じゃない。ううう、どうしよう、でも私が仏像を大好きになったきっかけは、願成就院の運慶仏だし、うううううう……)

ほんの一瞬だと思いますが、こんなに悩むことはないってくらい悩んで、結局、私は「運慶」に手を上げました。

一般的風潮として、運慶を天才と呼び、いわばスーパースター的扱いをします。一方、快慶は秀才的な、というかおとなしい感じの作風で捉えることが多い気がするので、(あくまでも運慶と比較したらですけど)少々影が薄い印象です。ですから、この時も、きっと運慶に手を上げる人が多いだろう、と思ってたんです。

ところが。
なんと、その場にいた人のおそらく7割が、「快慶」に手を上げたのでした。

私は、心底びっくりしてしまいました。

――本を作る人間としても、これは看過できない結果だぞ。

仏像の本をつくるときに、慶派といったらまず運慶の仏像を、と考えるのが普通の編集者でしょう。でもしかし。それは思い込みだったのかもしれない…

快慶は「祈りの人」

講演会の後、N山先生にこの驚きをお話すると、先生はにっこりと微笑まれて、

「快慶の仏像は、その後多くの人が真似をしました。今では『安阿弥様(あんなみよう)』と呼ばれるほど、ひとつの様式となっていった。それだけ多くの人に愛されたということじゃないかな」

あ。そっか~~!
そうですよね!?

運慶の仏像は、唯一無二。その作風を継承しようとしても、肉薄するようなレベルにまでは誰もできなかったんだろう……そう思っていましたが、それを違う角度から見ると、継承しなかったともとれるんですね。
人々の好みは、むしろ快慶の仏像にあった。そうもとれるわけです。

「快慶という人は、祈りの人だから。その「祈り」が、多くの人に共感されたんでしょう」

なるほど、そうですよね。
快慶の仏像は、優しい。
それは、快慶が阿弥陀信仰の篤い信者であったことと関係しています。

阿弥陀如来への篤い信仰
運慶・快慶が生きた鎌倉時代初期は、正に怒涛の時代でした。
院政、そして平家の繁栄、源平の戦い……、そして平家が滅び、源氏・北条氏の時代になりました。
世の中には戦乱だけでなく、飢饉や災害も相次ぎ、あまりに多くの命が失われてしまいました。そんな中、人々のこころをとらえたのは「浄土信仰」、「阿弥陀信仰」だったのです。

「この世で悲しい目に遭ってひどいことになっても、阿弥陀さんに帰依すれば、極楽浄土へ迎えてくれる」

愛する人が死んでいくのに何もできない、不条理な理由で簡単に死んでしまう、そんな現実を前に、人々は、魂の救済をこころから願い、阿弥陀如来に祈ったのです。

快慶が、どんな家に生まれ、なぜ仏師になったのかなどは、わかっていないようなのですが、祈り続けなくてはいられないような深い理由があったのかもしれません。

(続く)

6 thoughts on “2017年は「慶派イヤー」!②快慶は、まさに「祈り」の人

  1. 実にざっくりとした理解というより思いつきレベルなんだけど、なぜ快慶本人が三尺阿弥陀の立像をあんだけ造ったのか、というのも重要なポイントだと思う。来迎(わざわざお迎えにやって来る)の姿としての立像であり、それがそのまま臨終行儀の本尊になり、必要あらば持ち出して枕元に置くという用途に応じたサイズだったんじゃないかなと。つまり、実用的というか需要に応えるホトケだったんじゃないかなぁ。だから以後、三尊像含めて安阿弥様が隆盛したんだと思う。
    実は僕も快慶に手を挙げたと思うけど、快慶像のほうが「ホトケを観た!」って感じがする。造形がうまいかどうかではなく、ホトケが入っているかどうか。もっといえば、定朝とならび「ホトケとしかいいようがない像」を造りえた名匠が快慶だったんじゃないかなと思うです。

    • ほんださん、コメントありがとうございます!
      これからと書こうと思ってたことを、ほんださんにズバリ書かれちゃった(笑)。おっしゃる通りだと思います!

      今回展覧会を拝観して、快慶という人のお仕事を概観してみますと、「運慶のほうが快慶より我が強かったんだろうなあ」
      という自分の思い込みは修正が必要だな、と思いました。
      我が強い、といういい方は適切かわかりませんが、
      快慶という人の仕事を見てますと、できるだけ経典に近づけるように、浄土信仰の世界をあまねく広められるように、そんな理想がドンとありますよね。
      「そこ(造像)に自分自身が介在していることすら忘れてほしい、ここにあるのは仏のお姿そのものである」
      そんな風に考えていたんじゃないかと思いました。

      そういう意味で、やはり快慶も運慶の「我」、それ以上に、彼なりの譲れない世界を頑として貫いている。
      「我をなくす」というのは「人間・快慶」としての我であって、
      信仰世界を顕現化させるという意味での気持ちは強烈に強かったんだな、と、そんなことを考えてしまいました。

      飾らずにひとことで言うと「快慶、ひょっとして運慶以上に、キャラめっちゃ濃いな!」という感想が素直な感想かもw

      ちなみに、やっぱり私は、運慶さんに手を上げちゃうかな。先日円成寺さんで、運慶の大日如来を拝見させていただいて、ちょっと言葉を失うほど感動してしまったもので^^;。

    • いえいえ~!
      コメントしてくださって、ほんと嬉しいです!

      それにしても快慶さん、控えめで内向的な人なんじゃないかなと勝手にイメージしてたんですけど、今回の展覧会を見て、あ、その思い込み間違ってた、って思いました。

  2. 何たって、あのファナティックなカリスマ重源に臣従して「阿弥」号を授かった人だから。快慶も強烈な「見仏」体験をしたのかもね。

    • ですよね~!?いや、ほんとほんと!
      あの強烈な重源さんにかしずいていたという印象と、
      東大寺中門二天が完成した時の褒賞を、運慶の息子に譲ったりしてたりする事実からして、かなり控えめで苦労人な感じの人なのかな、とか勝手に想像してたんですけど、
      今回拝見すると、想像していた以上に、運慶にも重源にもキャラ負けてないっていうか。
      相当強いぞ、この人、って言うか…
      ほんださんがおっしゃるように、快慶自身にもそういう体験があったのかもしれない!!

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