仏像holicになった理由~世界は広く深く~

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それぞれに名前がある、と知る
子どもの頃の私には、植物も動物もまったく同じように見えて、同じように名前を付けて話しかけたりしてました。名前を付けて呼びかける木や花は、人間の友達と一緒なのです。

ある日、きれいだなあ、と思っていた花の名前を教えてくれたお爺ちゃんがいました。その花は「ユキノシタ」という名前でした。私は「シロさん」と呼んでましたが、断然「ユキノシタ」という名前が似合ってます。透明感のある白さといい、地面に近いところに遠慮深く咲く感じといい、まさに「雪ノ下」ってかんじ。

同じように、いつもおやつをくれるお寺のお坊さんが、いつも見ている丸い頭の仏像が、お地蔵さんという名前だと教えてくれました。丸い頭でちょっと地味だけど、親しみやすそうな雰囲気が、なるほど「ジゾー」って感じだなあ、と思ってすぐに覚えました。

一度覚えますと、ほかの場所にその「ユキノシタ」や「ジゾー」がないか探してしまいます。あ、また居た、またあった!
それまでひと固まりだった世界が、一つ一つ独立した存在として視界に入ってくるような感覚です。世界はどんどん広く深くなっていきます。

……そんな中に仏像という存在もあった、って感じでしょうか。だからよくわからないけど、仏像の名前はたくさん覚えました。雰囲気で見分けられるようにもなりました。植物を見分けるように。

さらに世界は広がっていく

大人になって、少し知識も入ってきますと、自分の中にまた新しい「フック」ができていきます。

多くの文化人が仏像についてエッセイを残しています。仏像に「はまる」と、旅に出る→文章を書く、ということをしたくなるのかも。私はこんな本を読んで、さらにまたあこがれを強くしたのでした。

たとえば、「願成就院の仏像を作ったという運慶作の仏像ってほかにもあるのかな?」と調べていろいろ見に行ったりしますね。 また、知識が入ってきてようやくそのすごさがわかるものもあります。たとえば、奈良の大仏さんは、私にとってまさにそうでした。

ものすごく大きい!という意味ですごいなあ、と思ってましたが、あまりにも観光地化していて、自分の中では「俗っぽいなあ」なんて思ってしまってたんです。それに創建当初のものではなく江戸時代のものであるということも、古い仏像が好きな私にとっては、正直言ってあまりそそらないなあ、という感じだったんですね。

でも、大人になってから、そもそもあれだけ大きい銅製の仏像をつくることがいかに大変か、ということを知りました。さらに、何度も燃えてしまい、そのたびに建て直されたということが、「奇跡」のようなことだったことも知りました。その大事業を命をかけてやり遂げた人たちがいたから、あの大仏さんを私たちが見ることができるんだなあ、と気付いたのですね。

そして、仏像holicになりました。
こんなふうに、観て「おー!」と感動して、知って「ほお~」と感心して……を繰り返しているうちに、見事に仏像ループにはまりこみました。
なかなか抜け出せない無限ループです(笑)。

有名な仏像でもまだ拝観してないものもたくさんありますし、無名の仏像まで入れたら無限といってもいいでしょう。おまけに「好き!」と思ったら何度も会いたくなるのが人情ってもんです。新規開拓もしたいけど、リピートもしたい、となるわけですよね。

いや~、困った困った!
でも、この果てしない感じが、またよいのです。

私はどんどん歳をとっていきますが、仏像はほとんど変わりません。
変わっていない仏像を観て安心したり、その仏像を観て、自分の感じ方が変わっていることに気づいたりするのがまたよいのですね~。

こうして、ブツタビしたくなっちゃうんですよね。ほんと、無限ループです。
きっと死ぬまでこのループからは逃れられないんじゃないかと思います(笑)。
楽しい苦しみです。

そんなわけで、また、ブツタビに出かけますよ~!
次は、どこに行こうかな…。

(おわり)

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