①ブッダがしようとしたこと――その言葉の本質とはいったい何か/『反骨のブッダ』高山龍智著(コスモ21刊)

現代インドで進行中の「仏教復興」

なかなか体調が戻らず、この週末も剣道のお稽古はお休み。
仕事も少々落ち着いてきたので、新年にできなかった掃除やら、資料整理を細々としつつ、自分のための読書です。

つい最近発売になった『反骨のブッダ』をさっそく拝読しました。

著者の高山龍智さんは、日本国内でいえば、浄土真宗の僧侶ですが、インド仏教の最高指導者・佐々井秀嶺師に師事し、日印仏教の橋のようなお仕事をされているお方だそうです。

少々話が遠回りになるかもしれませんが、私は以前、サンガラトナ・法天・マナケ師の『波乱万丈! インドの大地に仏教復興』(春秋社)という本を拝見して、インドの社会状況と、インド仏教を再興しようとして奮闘しておられる方々の活動を知りました。

数年前、バンコクに住んでいるときに、印僑(インド系商人)の人たちがたくさんいるので、インドに詳しい当時の連れ合いにいろいろ教えてもらいましたが、ひとことで言うと、インドでは『カースト』がいまだに現役バリバリの制度であるということを目の当たりにして、本当に驚きました。「そんな構造の中で生きるだなんて、なんて大変なんだろう、つらい」と、溜息と共に思ったのです。

そんな中で法天師の本を読み、なるほど、インドで仏教が復興されようとしていることには、こんなにも必要な事情があるんだな、と思わず黙り込んだ覚えがあります。

ちなみに、法天師は、インドのアウトカーストに生まれ、日本山妙法寺にて、7歳の時に自ら進んで得度。9歳の時に比叡山延暦寺に留学して、修行したという方です。この本を読むと、インドに仏教を復興させたアンベードカル博士についてや、カースト制度への理解が早いと思います。

「カースト」という恐ろしい物語に立ち向かった人、ブッダ

さて、この「カースト」なんですけども、誤解を恐れずに言えば、「征服民族が自分たちが永久に支配者階級であるために有利であるように、仕掛けた壮大な罠(物語)」だと思います。

今から3000年も前の話です。
でも、その物語は、波はありますけれども、昔もそして今も生々しく有効だということです。

約2500年前にも、この罠をどうにかしたいと考えて立ち上がった人がいました。それこそが、私たちもよく知る「ブッダ」なのです。

一般の日本人は「ブッダ」と聞くと、何かこう、優しそうな、すべてを包み込んでくれ、許してくれそうなイメージがあるという人が多いのではないかと思いますが、もちろんそうした人間的大きさはあったでしょうけども、それよりも何よりも、「改革者」としての活動家であったというほうが、主だったと考えたほうがいい。

それは、インドで何千年も続いてしまっている、恐ろしい呪いのような社会構造を知ると、わかります。
そんな状況をどうにか変えたいと奮闘したのがブッダであった。そして、の戦いは今も続いている、ということなのです。

そうしたインドの社会状況、そして自然状況などを知らないと、ブッダの言葉を読み違えてしまうのも、また仕方がないことでしょう。

私たち日本人が暮らす日本列島は、やはり穏やかでのんびりしているのです。
そして絶えず変化していくことを前提にしている文化を持っています。

季節は大きく移り変わり、様々な動植物が現れては消えてゆく。どんなに偉い人でも、ずっと富んでいるということはないと考える。実際問題、自然災害が起これば、富者も貧者も同じく死んでしまうし、立派な建物でも火事で焼け、あるいは津波に呑まれてしまう。

このような背景を持つ我々の文化と、「魂は永遠に変わらない、死んでも終わらない。暑さはずっと続くし、砂漠はずっと砂漠」といった文化では、同じ言葉でも捉え方が違うのです。

その前提をもって、「仏教」の中心概念を、やさしく読み解いてくれるのが本書『反骨のブッダ』だと言えると思います。

(続く)

【覚書】「あれ」の意味ーー稗田阿礼と、鹿島神宮の「大物忌」

鹿島のクマリ「大物忌(おおものいみ)」と、「あれ」

古事記を編纂した時に功績のあった「稗田阿礼(ひえだのあれ)」という人がいます。
天武天皇の勅命で「帝皇日継(ていおうのひつぎ)」と「先代旧辞」を「誦み習わし」ていた、つまり「丸暗記していた」という稗田阿礼は、謎が多いキャラクターで、小説にも多く描かれている人物です。 「稗田」氏は、天の岩戸伝説で有名なアマノウズメノミコトの末裔である「猿女の君」の一族と言い、それからしても、阿礼さんは、女性だったのではないか、とか。丸暗記しているというその異能からして、サヴァン症候群の天才的人物だったのではないか、とか。

謎が多いというか謎だらけの人物なわけですけど、わざわざ古事記序でその名前を挙げて称しているということからしても、この人の功績がいかに大きく、尊いことだったかということを想像します。

ところで。

たまたま「大物忌」(*物忌は、伊勢神宮、賀茂・春日・平野・松尾・香取・鹿島などの大社に仕えた童女・童男のこと。鹿島の「大物忌」はチベットの「クマリ:童女現人神」に似たような存在)について調べたくて、『新鹿島神宮誌』を再読していたら、「みあれ」という言葉が出てきました。「みあれ」は、「み生れ」と書くそうで、新しく生まれ出ることを言うようなんですね。ちょっと抜萃してみますと…

――「生(あ)れ」とは一つには、地下の種の状態の見えない世界から見える世界へ発芽し、「生れ」てくるという意味がある。そしてこの時の「生れ」は同時に「荒れ」でもある。あるけれども見えない聖なる地下の世界から土を打ち破り地上の動の世界へ荒々しく「荒れ」て出てくるのである。(中略)「生れ」は「荒れ」であり、「有れ」「在れ」の生命顕現の姿である。(「第五章 鹿島神宮古事記」より引用)

 鹿島神宮の基本的なご神徳はこの「みあれ」である、と。ものすごくざっくりまとめると、「新たなる出発、旅立ち、誕生、表出、春」そうしたことが基本属性と考えられるようです。

鹿島の「大物忌」は、伊勢の神宮の斎宮と同じく、大宮司より上位にありました。古い時代には、ごくごく限られたお祀りにしか参加しなかったそうなんですね。それは、この基本属性に関わる重要なお祭りのみ。神が「静の世界、姿のない世界」から、「動の世界、姿のある世界」に顕現することに関わる御祭りに、大物忌がお迎えする、という感じですね。
なるほど、「あれ」にはそんなに大切な意味があるのね、と頷きながら、ふと連想したのは「稗田阿礼」のことだった、というわけなのです。

賀茂の斎院と「あれ」

そして、これまた流れで読み始めていた『日本巫女史』(中山太郎著)で、ハッとなりました。
「阿礼乎止売(アレヲトメ) 賀茂神社 類聚国史
賀茂社の斎院を一に阿礼乎止売とも称えたことが、「類聚国史」天長八年十二月の条に載せてある。阿礼の語釈に就いては諸説あるも、私は産生(あれ)の意と解してある。賀茂社第一の神事である御阿礼は、即ち産出の事だと考えている。」

なんと!

賀茂の斎院も、「あれおとめ」と呼ばれていたと。しかも「あれ」に充てられている漢字が「阿礼」で、稗田阿礼と同じじゃないですか。

浅学にして存じませんでしたが、「阿礼」には、そんな意味があったんですね。なるほどなあ。

このことからしても、性別はわかりませんけど、稗田阿礼という名前には、「生まれ出る」といった意味合いがあったということですよね。
天岩戸伝説で、天照大神が再びこの世に出現するきっかけを作ったアマノウズメノミコトの末裔にふさわしい名前ですし、「古事記」をこの世に顕現させるために存在する人物であったということを、よく表現しているように思います。

古来、言葉は「呪」でもありますし、意味のあること以外に使いません。全てに意味があることを思うと、やはりこの名前に込められた意味は深いですよね。